No.282 - ショスタコーヴィチ:ムツェンスク郡のマクベス夫人

前回の No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番」の続きです。前回は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番に関するドキュメンタリー番組、 音楽サスペンス紀行 ショスタコーヴィチ 死の街を照らしたレニングラード交響曲 NHK BS プレミアム 2020年1月16日 の内容から、交響曲第7番に関するところを紹介し、所感を書きました。この番組の最初の方、第7番の作曲に至るまでのショスタコーヴィチの経歴の紹介で、 スターリンはショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を気に入らず、すぐさま共産党の機関誌・プラウダは批判を展開した。ショスタコーヴィチはそれに答える形で『交響曲第5番』を書いた という主旨の説明がありました。この件は20世紀音楽史では有名な事件なのですが、ショスタコーヴィチと政治の関係に関わる重要な話だと思うので、以降はそれについて書きます。 『交響曲第5番』(初演:1937。30歳)はショスタコーヴィチ(1906-1975)の最も有名な曲でしょう。聴いた人は多数いるはずです。しかし『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(初演:1934。27歳)を劇場やDVD/BDで観た人は、交響曲第5番に比べれば少数だと思います。そこでまず、これがどういうオペラかを書きます。その内容と音楽がプラウダ紙の批判と密接にからんでいるからです。 ムツェンスク郡のマクベス夫人 島田雅彦 「オペラ・シンドローム」 (NHKブックス 2009) 『ム…

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No.281 - ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」

今回は「音楽家、ないしは芸術家と社会」というテーマです。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたことを振り返ると、次のようなことでした。 ◆ ウィーンで活躍した作曲家のコルンゴルト(チェコ出身。1897-1957)は、ユダヤ人迫害を逃れるためアメリカに亡命し、ロサンジェルスに住んだ。 ◆ コルンゴルトはハリウッドの映画音楽を多数作曲し、アカデミー賞の作曲賞まで受けた(1938年)。 ◆ 彼はその映画音楽から主要な主題をとって「ヴァイオリン協奏曲」を書いた(1945年)。この曲はコルンゴルトの音楽のルーツであるウィーンの後期ロマン派の雰囲気を濃厚に伝えている。この曲は50年前の1895年に書かれたとしても全くおかしくない曲であった。 ◆ 「ヴァイオリン協奏曲」はハイフェッツの独奏で全米各地で演奏され、聴衆からの反応は非常に良かった。 ◆ しかしアメリカの音楽批評家からは「時代錯誤」、「ハリウッド協奏曲である」と酷評された。またヨーロッパからは「ハリウッドに魂を売った男」と見なされ評価されなかった。 アメリカの聴衆からは好評だったにもかかわらず、なぜ批評家から酷評されたかというと、「20世紀音楽でなく、旧態依然」と見なされたからです。 20世紀前半の音楽というと、オーストリア出身のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンが無調性音楽や12音音楽を作り出しました。またヨーロッパの各国では、ヒンデミット(独…

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No.280 - 円山応挙:国宝・雪松図屏風

No.275「円山応挙:保津川図屏風」の続きで、応挙の唯一の国宝である『雪松図屏風』(三井記念美術館・所蔵)について書きます。私は今までこの作品を見たことがありませんでした。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』(2016年11月3日~12月18日。No.199「円山応挙の朝顔」参照)でも前期に展示されましたが、私が行ったのは後期だったので見逃してしまいました。 『雪松図屏風』は、三井記念美術館の年末年始の展覧会で公開されるのが恒例です。今度こそはと思って、2020年の1月に日本橋へ行ってきました。「国宝 雪松図と明治天皇への献茶」(2019.12.14 - 2020.1.30。三井記念美術館)という展覧会です。雪松図と茶道具がセットになった展覧会ですが、その理由は、明治20年(1887年)に三井家が京都御所で明治天皇に献茶を行ったときに『雪松図屏風』が使われたからです。 この屏風は今までTVやデジタル画像で何回も見ましたが、そういったデジタル画像ではわからない点、実際に見て初めてわかる点があることがよく理解できました。ないしは、実際に見ると "なるほど" と強く感じる点です。それを4つの切り口から以下に書きます。 円山応挙(1733-1796) 「雪松図屏風」 円山応挙 「雪松図屏風」右隻 円山応挙 「雪松図屏風」左隻 松の葉が描き分けられている 『雪松図屏風』は右隻に1本、左隻に2本の、合計3本の松が描かれています。詳細に見ると、…

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No.279 - 笠間日動美術館

今まで、バーンズ・コレクションからはじまって11の "個人コレクション美術館" について書きました。  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ  No.242ホキ美術館千葉市  No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン の11の美術館です。これらはいずれも19世紀から20世紀にかけての実業家か富裕層の美術愛好家が、自分が得た財産をもとに蒐集したコレクションが発端になっていました。美術館の名前にはコレクターの名が冠されています。もちろんコレクターが亡くなったあとは、コレクションを継承した親族やNPO財団、国や市が美術館として発展させ、所蔵品を充実させてきたケースが多々あります。 今回はその "個人コレクション美術館" の1…

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No.278 - エリチェの死者の日

No.29「レッチェンタールの謝肉祭」の話から始めます。レッチェンタールはスイスのアルプスの谷にある小さな村ですが、この村の謝肉祭では「チェゲッテ」と呼ばれる鬼の面(ないしは "妖怪" の面)をつけた村人が練り歩きます。これは日本の秋田県男鹿地方の「ナマハゲ」に酷似した祭りです。つまり、謝肉祭というキリスト教の祭りと「チェゲッテ」というキリスト教以前の習俗が融合しているところに特徴があります。レッチェンタールにキリスト教が布教されたのは16世紀と言いますから、ヨーロッパの中でも極めて遅いことになります。だから「チェゲッテ」が生き延びたのでしょう。 さらに「レッチェンタールの謝肉祭」で印象的だったのは、この謝肉祭を取材したNHKの番組で語られていた村人の言葉でした。つまり、 「祭りのときに先祖の霊が戻ってきて、終われば帰っていく。先祖が我々を守る」 という意味の発言です。いわゆる先祖信仰、ないしは先祖祭祀ですが、これもキリスト教とは無縁のコンセプトです。こういった日本のお盆にも似た信仰は宗教にかかわらず世界共通ではないかと、そのとき思いました。 ところで、先祖信仰のイタリアでの例が先日のNHKの番組で紹介されました。2019年12月24日に放送された「世界ふれあい街歩き スペシャル」(NHK BS1)の中の「エリチェ」です。「レッチェンタールの謝肉祭」の続きとして、その内容を以下に掲載したいと思います。以下は番組をテキスト化したもの、ないしは番組内容の要約です。ちなみに「…

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No.277 - 視覚心理学と絵画

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」と No.256「絵画の中の光と影」で、九州大学名誉教授の三浦佳世氏が書かれた「視覚心理学が明かす名画の秘密」(岩波書店 2018)と「絵画の中の光と影 十選」(日本経済新聞。2019年3月。10回連載のエッセイ)の "さわり" を紹介しました。今回はその「視覚心理学と絵画」というテーマの補足です。 2013年にアメリカの「Scientific American誌 特別版」として発行された、 「Scientific American Mind 187 Illusions」 マルティネス = コンデ(Susana Martinez-Conde)、マクニック(Stephen Macknik)著 という本があります。著者の2人はアメリカのバロー神経学研究所に所属する神経科学者で、本の日本語訳は、 「脳が生み出すイルージョン ── 神経科学が解き明かす錯視の世界」(別冊日経サイエンス 198) です(以下「本書」と記述)。本書は20のトピックごとの章に分かれていて、その中に合計187の錯視・錯覚・イルージョンが紹介されています。ここから絵画に関係したものの一部を紹介したいと思います。 なおタイトルに「視覚心理学」と書きましたが、もっと一般的には「知覚心理学」です。さらに医学・生理学からのアプローチでは「神経生理学」であり、広くは「神経科学」でしょう。どの用語でもいいと思うのですが、三浦佳世氏の著書からの継続で「視覚…

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No.276 - AIの "知能" は人間とは違う

いままで合計16回書いたAI(人工知能)についての記事の続きです。まず、No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」を振り返るところから始めます。No.196 で紹介した「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト(略称:東ロボ)の結論は、 ◆ 東ロボくんは、"MARCH"、"関関同立" の特定学部に合格できるレベル ◆ ただし、東大合格は無理 というものでした(MARCH = 明治、青山学院、立教、中央、法政。関関同立 = 関西、関西かんせい学院、同志社、立命館)。つまりこのプロジェクトは「AIの可能性と限界を実証的に示したもの」と言えるでしょう。あくまで大学入試という限られた範囲です。しかし大学入試は10代後半の人間の知的活動の成果を試す重要な場であり、その結果で人生が左右されることもあるわけです。"人工知能" の実力を試すにはうってつけのテーマだったと思います。 では、なぜ東大合格は無理なのか。それは東ロボくんには得意科目もあるが、不得意科目があるからです。たとえば数学では、東大理科3類を受験する子なみの偏差値を出しました。しかし不得意もあって、その典型が英語のリスニング、「バースデーケーキの問題」でした(No.196 の「補記」参照)。この問題において東ロボくんは、英語を聞くことは完璧にできました(=音声認識技術)。しかし質問が「できあがったケーキはどれか、4つのイラストから選びなさい」だったため、そこが全くできなかった。国立情報学研究所の方の「絶対に…

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No.275 - 円山応挙:保津川図屏風

No.199「円山応挙の朝顔」で、東京の根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会(2016年11月3日~12月18日)に出展された応挙の作品を何点かとりあげました。今回はその続きで、2019年夏に開催された応挙作品を含む展覧会の話を書きます。東京藝術大学美術館で開催された「円山応挙から近代京都画壇へ(東京展)」(2019年8月3日~9月29日)です。 今回は展示されていた応挙作品の中からピンポイントで『保津川図屏風』(重要文化財。後期展示)をとりあげ、併せて順路の最後に展示してあった川合玉堂の作品のことを書きます。まず、この展覧会の概要です。 円山応挙から近代京都画壇へ この展覧会の内容については、主催者が発行したパンフレット(上の画像)に次のように記されていました。 18世紀、様々な流派が百花繚乱のごとく咲き乱れる京都で、円山応挙は写生画で一世を風靡し円山派を確立しました。また、与謝蕪村に学び応挙にも師事した呉春によって四条派が興り、写生画に瀟洒な情趣を加味して新たな一派が誕生します。この二派は円山・四条派としてその後の京都の主流となり、近代に至るまで京都画壇に大きな影響を及ぼしました。 本展は、応挙、呉春を起点として、長沢芦雪、渡辺南岳、岸駒がんく、岸竹堂きしちくどう、幸野楳嶺こうのばいれい、塩川文麟しおかわぶんりん、竹内栖鳳、山元春挙、上村松園ら近世から近代へと引き継がれた画家たちの系譜を一挙にたどります。また、自然、人物、動物とい…

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No.274 - 蜂を静かにさせる方法

今回は、No.105「鳥と人間の共生」の関連です。No.105 で書いたアフリカの狩猟採集民の「蜂の巣狩り」ですが、次の3つのポイントがありました。 ◆ 狩猟採集民は火をおこし、煙でミツバチを麻痺させて蜂の巣を取り、ハチミツを採取する。 ◆ ノドグロミツオシエ(漢字で書くと "喉黒蜜教え"。英名:Greater Honeyguide)という鳥は、人間をミツバチの巣に誘導する習性がある。この誘導行動には特有の鳴き声がある。狩猟採集民はこれを利用してミツバチの巣を見つける。 ◆ ノドグロミツオシエは人間の "おこぼれ" にあずかる。たとえば蜂の巣そのものである(巣の蝋を消化できる細菌を体内に共生させている)。つまり、ノドグロミツオシエと人間は共生関係にある。 タンザニア北部の狩猟採集民、ハッザ族が「蜂の巣狩り」をする様子が YouTube に公開されています(https://www.youtube.com/watch?v=6ETvF9z8pc0)。それを見ると、ハッザ族の男たちは木をこすって火をおこし、火種を作って木片を燃やし、ノドグロミツオシエが示した木に登って蜂の巣がある樹洞じゅどうに煙を入れています。 YouTube に公開されているハッザ族の「蜂の巣狩り」の様子。ノドグロミツオシエの誘導によりハチミツの在り処を知ると、火をおこして木片を燃やし、木に登って、蜂の巣がある樹洞に木片から出る煙を入れ、蜂の巣を採取する。こ…

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No.273 - ソ連がAIを駆使したなら

No.237「フランスのAI立国宣言」で、国立情報学研究所の新井紀子教授が朝日新聞(2018年4月18日)に寄稿した "メディア私評" の内容を紹介しました。タイトルは、 仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ で、AIと国家戦略の関係がテーマでした。その新井教授が最近の "メディア私評" で再び AI についてのコラムを書かれていました(2019年10月11日)。秀逸な内容だと思ったので、その内容を紹介したいと思います。 実はそのコラムは、朝日新聞 2019年9月21日に掲載された、ヘブライ大学教授・歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏へのインタビュー記事に触発されて書かれたものです。そこでまず、そのハラリ教授の記事の関連部分を紹介したいと思います。ハラリ教授は世界的なベストセラーになった「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者です。 AIが支配する世界 ユヴァル・ノア・ハラリ氏 朝日新聞が行ったハラリ教授へのインタビューは「AIが支配する世界」と題されています。サブの見出しは、 国民は常に監視下 膨大な情報を持つ独裁政府が現れるデータを使われ操作されぬため 己を知り抵抗を です。まずハラリ教授は、現代が直面する大きな課題には3つあって、それは、  ① 核戦争を含む世界的な戦争  ② 地球温暖化などの環境破壊  ③ 破壊的な技術革新 だと言います。そして「③ 破壊的な技術革新」が最も複雑な課…

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No.272 - ヒトは運動をするように進化した

No.221「なぜ痩せられないのか」の続きです。No.221では「日経サイエンス」2017年4月号に掲載された進化人類学者、ハーマン・ポンツァー(ニューヨーク市立大学・当時)の論文を紹介したのですが、そこに書かれていた彼のフィールドワークの結果は、 アフリカで狩猟採集生活をしているハッザ族のエネルギー消費量は欧米の都市生活者と同じ というものでした。言うまでもなく狩猟採集生活をしているハッザ族の人たちの身体活動レベルは、欧米の都市生活者よりも遥かに高いわけです(No.221)。それなのにエネルギー消費量は(ほとんど)変わらない。我々は「体をよく動かしている人の方がエネルギー消費量が多い」と、何の疑いもなく考えるのですが、それは「運動に関する誤解」なのです。ここから得られる「なぜ痩せられないのか」という問いに対する答は、 肥満の原因は運動不足より過食であり、運動のダイエット効果は限定的 ということでした。もちろん、運動は健康のために非常に重要です。No.221 にも「運動が、循環器系から免疫系、脳機能までに良い影響を及ぼすことはよく知られている通り。足の筋肉を鍛えることは膝の機能を正常に保つことになるし、健康に年を重ねるにも運動が大切」と運動の効用(の例)を書いたのですが、これは我々共通の認識だと思います。しかしそこに「運動に関する第2の誤解」が潜ひそんでいそうです。つまり、 ヒトは適切な食事(= 過食にならない、栄養バランスのとれた食事)をとれば普通の健康状態で過ごせ…

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No.271 - 「天気の子」が描いた異常気象

この「クラバートの樹」というブログは、少年が主人公の小説『クラバート』から始めました。それもあって、今までに少年・少女を主人公にした物語を何回かとりあげました。  『クラバート』(No.1, 2)  『千と千尋の神隠し』(No.2)  『小公女』(No.40)  『ベラスケスの十字の謎』(No.45)  『赤毛のアン』(No.77, 78) の5つです。今回はその継続で、新海誠監督の『天気の子』(2019年7月19日公開)をとりあげます。 『天気の子』は、主人公の少年と少女(森嶋帆高ほだかと天野陽菜ひな)が「運命に翻弄されながらも、自分たちの生き方を選択する物語」(=映画のキャッチコピー)ですが、今回は映画に描かれた "気象"(特に異常気象)を中心に考えてみたいと思います。 気象監修 この映画で描かれた気象や自然現象については、気象庁気象研究所の研究官、荒木健太郎博士がアドバイザーとなって助言をしています。映画のエンドロールでも「気象監修:荒木健太郎」となっていました。 この荒木博士が監修した気象について、最近の「日経サイエンス」(2019年10月号)が特集記事を組んでいました。この記事の内容を中心に「天気の子が描いた異常気象」を紹介したいと思います。ちなみ荒木博士は映画の最初の方で「気象研究所の荒木研究員」として登場します。帆高が都市伝説(=100%晴れ女)の取材で出会う人物です。荒木博士は声の出演もさ…

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No.270 - 綴プロジェクトによる北斎の肉筆画

高精度複製画による日本美術の展示会 No.85「洛中洛外図と群鶴図」で、2013年に京都府で開催された「文化財デジタル複製品展覧会 - 日本の美」を見学した話を書きました。この展覧会には、キヤノン株式会社が社会貢献活動として京都文化協会と共同で行っている「綴つづりプロジェクト」(正式名称:文化財未来継承プロジェクト)で作られた高精度複製画が展示されていました。その原画の多くが国宝・重要文化財です。No.85 のタイトルにしたのは展示作品の中から、狩野永徳の『上杉本・洛中洛外図屏風』(国宝)と、尾形光琳の『群鶴図屏風』でした。 綴プロジェクトの高精度複製画は、複製と言っても非常にレベルが高いものです。高精度のデジタルカメラで日本画を撮影し、高精細のインクジェット・プリンタで専用の和紙や絹本に印刷します。それだけではなく、金箔や金泥、雲母(きら)の部分は本物を使い、表装は実物そっくりに新たに作成します。もちろん、金箔・金泥・雲母・表装は、その道のプロフェッショナルの方がやるわけです。つまり単にデジタル撮影・印刷技術だけで作成しているのではありません。「キヤノンのデジタル技術 + 京都の伝統工芸」が綴プロジェクトです。その制作過程を、キヤノンのホームページの画像から掲載しておきます。 綴プロジェクトの制作過程(1)入力 デジタル1眼レフカメラによる多分割撮影で、高精度のデジタル画像を取得する。 綴プロジェクトの制作過程(2)色合わせ オリジナル作品とプリント出力の結果を合わせ…

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No.269 - アンドロクレスとライオン

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で古代ローマの円形闘技場で行われた剣闘士の闘技会のことを書いたのですが、その時に思い出した話がありました。今回は No.203 の補足としてその話を書きます。 まず No.203 の復習ですが、紀元2世紀ごろのローマ帝国の闘技会はふつう午後に行われ、午前中にはその "前座" が開催されました。1日のスケジュールは次のようです。 ◆ 野獣狩り(午前) ライオン、ヒョウ、クマ、鹿、ガゼル、ダチョウなどを闘獣士が狩る(殺す)ショー。猛獣の中には小さいときから人間を襲うように訓練されたものあり、そういう猛獣と闘獣士は互角に戦った。 ◆ 公開処刑(午前) 死刑判決を受けた罪人の公開処刑。処刑の方法はショーとしての演出があった。罪人が猛獣に喰い殺される "猛獣刑" もあった。 ◆ 闘技会(午後) 剣闘士同士の試合(殺し合い)。剣闘士には、武器と防具、戦い方によって、魚剣闘士、投網剣闘士、追撃剣闘士などの様々な種類があった。 No.203 では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社 2010)を引用してそれぞれの様子を紹介しました。この本は最新のローマ研究にもとづき、紀元115年のトラヤヌス帝の時代の首都ローマの1日を実況中継風に描いたものです。その中の野獣狩り・公開処刑のところで思い出した話がありました。「アンドロクレスとライオン」という話です。それを以下に書きます。 …

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No.268 - 青森は日本一の「短命県」

No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」で、都道府県の "幸福度" を数値化する指標の一つである平均寿命を取り上げました。この「都道府県別の平均寿命」は青森県が最下位です。そのことを指して、 青森県民が塩気の利いた食品(漬け物など)を好むからだという説を聞いたことがありますが、青森県当局としてはその原因を追求し対策をとるべきでしょう。 と書きました。私は知らなかったのですが、実は「青森は日本一の短命県」という "汚名" を返上すべく、2005年から大がかりなプロジェクトが進んでいます。そのことは最近の新聞で初めて知りました。その認識不足の反省も込めて、今回は進行中のプロジェクトの話を書きます。まず、No.247 で取り上げた「都道府県別の平均寿命」の復習です。 都道府県別の平均寿命 厚生労働省は5年に1回、「生命表」を公表しています。最新は2015年のデータで、ここでは男女別の平均余命が全国および都道府県別に集計されています。ゼロ歳の平均余命が、いわゆる「平均寿命」です。 No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」は、「2018年版 都道府県幸福度ランキング」(日本総合研究所編)の内容を紹介したものでしたが、ここで指標の一つとして使われた平均寿命は、厚生労働省の「道府県別平均寿命データ(2015年)」の男女の平均値でした。つまり男と女の平均寿命を単純平均したもの(小数点以下1桁)です。 今回は、厚生労働省の原データ(小数点以下2桁)から再計算した結果を…

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No.267 - ウナギの商用・完全養殖

No.107「天然・鮮魚・国産への信仰」の続きです。No.107 で魚介類の「天然」と「養殖」の話の中で、ウナギの養殖に使うシラスウナギ(=天然のウナギの稚魚)の漁獲量が激減している(従って価格が高騰している)ことを書きました。 そのウナギですが、最近の日経サイエンス(2019年8月号)に完全養殖の商用化についての現状がレポートされていました。そこで、これを機会に魚介類の「天然・養殖」についてもう一度振り返り、日経サイエンスの記事からウナギの商用・完全養殖の状況を紹介したいと思います。 「天然信仰」からの脱却 No.107で書いたように、世間一般には「素朴な天然信仰」があり、まずそこから脱却する必要があるでしょう。そもそも魚介類について「天然もの」の方が「養殖もの」よりおいしいとか、品質が良いと決めつけるのがおかしいわけです。一つの例として No.107 でミシュランの3つ星店「すきやばし次郎」の小野二郎氏(現代の名工)の発言を紹介しました。次のような要旨でした。 【要旨】 鮨ネタに関しては、一般的に天然のほうが旨い。しかし、シマアジに関しては養殖ものの方が旨いという客もいる(好みによる)。またクルマエビは、養殖の方が香りと濃厚さで勝っている。 小野二郎 (文藝春秋 2013.8) 「すきやばし次郎」は、一部の例外や入手困難なネタを除いて、天然ものを使うのが基本で、それは立派な見識です。しかし上の要旨にあるように、シマアジに関しては天然と養殖で客の好…

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No.266 - ローザ・ボヌール

No.93「生物が主題の絵」の続きです。ここで言う "生物" とは、生きている動物、鳥、樹木、植物、魚、昆虫などの総称です。日本画では定番の絵の主題ですが、No.93 で取り上げたのは西欧絵画における静物画ならぬ "生物画" でした。 その中でフランスの画家、ローザ・ボヌールが描いた「馬の市場の絵」と「牛による耕作の絵」を引用しました。この2作品はいずれも19世紀フランスの日常風景や風俗を描いていますが、実際に見ると画家の第一の目的は馬と牛を描くことだと直感できる絵です。 ローザ・ボヌール(1822-1899) 「馬市」(1853) (244.5cm × 506.7cm) メトロポリタン美術館 ローザ・ボヌール 「ニヴェルネー地方の耕作」(1849) (133.0cm × 260.0cm) オルセー美術館 日本人がニューヨークやパリに観光に行くとき、メトロポリタン美術館とオルセー美術館を訪れる方は多いのではないでしょうか。ローザ・ボヌールのこの2枚の絵は大きな絵なので、記憶に残っているかどうかは別にして、両美術館に行った多くの人が目にしていると思います(展示替えがないという前提ですが)。メトロポリタン美術館は巨大すぎて観光客が半日~1日程度で全部をまわるは不可能ですが、『馬市』は "人気コーナー" であるヨーロッパ近代絵画の展示室群の中にあり、しかも幅が5メートルという巨大な絵なので、多くの人が目にしているはずです。 多くの人が目にしているはずなのに話題に…

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No.265 - AI時代の生き残り術

今回は No.234「教科書が読めない子どもたち」と、No.235「三角関数を学ぶ理由」の続きで、「AI時代に我々はどう対応していけばよいのか」というテーマです。まず、今までにAIについて書いた記事を振り返ってみたいと思います。次の15の記事です。 ◆No.165 - データの見えざる手(1) ◆No.166 - データの見えざる手(2) ◆No.173 - インフルエンザの流行はGoogleが予測する ◆No.174 - ディープマインド ◆No.175 - 半沢直樹は機械化できる ◆No.176 - 将棋電王戦が暗示するロボット産業の未来 ◆No.180 - アルファ碁の着手決定ロジック(1) ◆No.181 - アルファ碁の着手決定ロジック(2) ◆No.196 - 東ロボにみるAIの可能性と限界 ◆No.197 - 囲碁とAI:趙治勲 名誉名人の意見 ◆No.233 - AI vs.教科書が読めない子どもたち ◆No.234 - 教科書が読めない子どもたち ◆No.237 - フランスのAI立国宣言 ◆No.240 - 破壊兵器としての数学 ◆No.250 - …

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No.264 - ベラスケス:アラクネの寓話

前回の No.263「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」で、この美術館の至宝、ティツィアーノ作『エウロペの略奪』について中野京子さんが次のように書いていることを紹介しました。 本作は、後代の著名な王侯御用達画家ふたりに取り上げられた。ひとりはルーベンスで、外交官としてスペインを訪れた機会にこれを丁寧に模写している。ティツィアーノに心酔していただけであり、自らの筆致を極力抑えて写しに徹した、すばらしい作品に仕上がった。 もうひとつはベラスケス。フェリペ2世の孫にあたるフェリペ4世の宮廷画家だった彼は、『織おり女めたち』の中で、アラクネが織り上げたタペストリーの主題として、このエウロペをいわば画中画の形で描き出した。 中野京子『名画の謎:対決篇』 (文藝春秋 2015) ルーベンスによる『エウロパの略奪』の模写は No.263 に引用したので、今回はもう一つの『織り女たち』を取り上げます。前回と同じく中野京子さんの解説から始めます。 ベラスケス『織り女たち』 ディエゴ・ベラスケス 「アラクネの寓話(織り女たち)」(1657頃) (220cm × 289cm) プラド美術館 本作は、通称『織おり女めたち』、正式には『マドリード、サンタ・イザベル綴織つづれおり工場』と呼ばれてきた。王立タペストリー工場内部を描いたもので、前景にいるのは糸紡いとつむぎする女性たち、後景は買い物にやってきた高貴な女性たち、一番奥の壁に飾られているのは、売り物のタ…

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No.263 - イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館

今までに10回書いた「個人美術館」の続きです。正確に言うと、コレクターの個人名を冠した「個人コレクション美術館」で、今回はアメリカのボストンにある「イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館」です。 イザベラ・ステュワート・ガードナーと美術館の設立 イザベラ・ステュワート・ガードナー(1840-1924)は、ニューヨークの裕福な実業家の娘として生まれ、20歳のときにボストンのジョン・ガードナーと結婚しました。彼女は富豪であり、"クイーン" と呼ばれたボストン社交界の名士でした。1991年(51歳)の時に父親が死んで遺産を相続したのを契機に、本格的に美術品の蒐集を始めました(ステュワートは旧姓)。そして夫の死後、蒐集したコレクションを飾るために建てた個人美術館が、1903年にオープンしたイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館です。彼女は4階の住居スペースで余生を送ったそうです。 イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の外観(上図)と中庭(下図)。現在は建物の横に新館が建てられているが、美術品はすべてガードナー夫人が1903年に建てた上図の美術館の内部にある。また、美しい中庭とそこから見る建物の景観も鑑賞のポイントである。上図の外観写真では、左下の方にサージェントの「エル・ハレオ」(後述)の図像が掲げられている。 美術館は、ボストン美術館の西、歩いてすぐのところにあります。15世紀ヴェネチアの大邸宅を模して建築されており、いわゆる「邸宅美術館」です。その意味では、ワシ…

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No.262 - ヴュイユマンのカンティレーヌ

今回は "音楽のデジャヴュ(既視感)" についての個人的な体験の話です。題名にあげた「ヴュイユマンのカンティレーヌ」はそのデジャヴュを引き起こした曲なのですが、その曲については後で説明します。デジャヴュとは何か。Wikipedia には次のような主旨の説明がしてあります。 実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じる現象。フランス語由来の言葉。デジャヴ、デジャブなどとも呼ばれる。 日本語では普通「既視感」ですが、聴覚、触覚などの視覚以外による体験も含みます。「既知感」との言い方もあります。今回は音楽(=聴覚)の話なので、以降は "デジャヴュ" で通します。 サン・サーンスのクラリネット・ソナタ "音楽のデジャヴュ" については以前に書いたことがあります。No.91「サン・サーンスの室内楽」で、サン・サーンス最晩年の作品、「クラリネット・ソナタ」について、次の主旨のことを書きました。 ◆ サン・サーンスのクラリネット・ソナタを初めて聴いたとき、この曲の冒頭の旋律は以前にどこかで聴いたことがあると思った。 ◆ それは、フランス映画かイタリア映画の映画音楽だろうと強く感じた。 ◆ しかし調べてみても、サン・サーンスのクラリネット・ソナタが映画に使われたという事実は見つからなかった。どうも違うようだ。 ◆ いろいろと考えてみて、この "音楽のデジャヴュ" を引き起こしたのは『ニュー・シネマ・パ…

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No.261 - "ニーベルングの指環" 入門(5)複合   [EX.162-193]

2019.6.21 Last update:2021.2.08 ⇒前回より続く これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。 今回の(5)が最終回で、EX.162 ~ EX.193 の 32種 のライトモティーフです。まず、今まで取り上げなかった副次的なモティーフの中から、人物や自然の活動に関係したものなどが解説されます。 そして「"ニーベルングの指環" 入門」の締めくくりとして、複数のモティーフを組み合わせてドラマを進行させる "複合モティーフ" が解説されます。 リヒャルト・ワーグナー 「神々の黄昏」 ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (新リマスター版CD 1997。録音 1964) CD2-Track12 There're one or two motives which lie outside the main families, representing simple characters rather than symbols. One of these is the motive attached to Hunding which we heard right at the start. Another is the brass motive as…

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No.260 - "ニーベルングの指環" 入門(4)英雄・神秘 [EX.115-161]

2019.6.07 Last update:2024.9.04 ⇒前回より続く これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。 第4回は、EX.115 ~ EX.161 の 47種 のライトモティーフです。ここでは『指環』に登場する "英雄" たちに関するモティーフをとりあげます。《剣》のモティーフとそこから派生するファミリーもその一部です。そのあとに "魔法と神秘" に関係したモティーフが解説されます。 リヒャルト・ワーグナー 「ジークフリート」 ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (新リマスター版CD 1997。録音 1962) CD2-Track03 The characters, in whose lives love plays such an important part, Siegmund and Sieglinde, Siegfried and Brunnhilde, are heroic figures, fighting to establish the claims of love in the loveless world of the Ring and the Spear. And these figures, taken together, f…

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No.259 - "ニーベルングの指環" 入門(3)愛    [EX.80-114]

2019.5.24 Last update:2021.2.08 ⇒前回より続く これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。 第3回は EX.80 ~ EX.114 の 35種のライトモティーフです。第2回の権力のモティーフ("指環" や "槍")とは正反対の関係にある "愛" に関連したモティーフ全般を扱います。 リヒャルト・ワーグナー 「ワルキューレ」 ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (新リマスター版CD 1997。録音 1965) CD1-Track15 Love is another of the central symbols of the drama, standing in direct opposition to the two central symbols of power, the Ring and the Spear. In the first place, it stands naturally in opposition to the Ring because the crucial condition attached to the making of the Ring is the Renunciation of Love. And …

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No.258 - "ニーベルングの指環" 入門(2)指環・槍 [EX.39-79]

2019.5.10 Last update : 2024.9.04 ⇒前回より続く これは、デリック・クックの「"ニーベルングの指環" 入門」(Deryck Cooke "An Introduction to Der Ring Des Nibelungen"。No.257 参照)の対訳です。 第2回は EX.37 ~ EX.79 の 43種のライトモティーフの解説です。ここでは『ニーベルングの指環』において "権力" や "力" のシンボルとなる2つの基本モティーフ、《指環》と《槍》、およびそこから派生するモティーフのファミリーを扱います。 リヒャルト・ワーグナー 「ラインの黄金」 ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (新リマスター版CD:1997。録音:1958) CD1-Track07 The cause of the deterioration of the Gold from a life giving inspiration to an agent of misery and death is, of course, the Ring of absolute power which Alberich makes from the Gold and puts the such evil use. Alberich's Ring is a central symbol of the drama, one of the two…

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No.257 - "ニーベルングの指環" 入門(1)序論・自然 [EX.1-38]

2019.4.26 Last update : 2024.4.17 No.14-15「ニーベルングの指環(1)(2)」で、リヒャルト・ワーグナーのオペラ(楽劇)『ニーベルングの指環』で使われているライトモティーフ(示導動機)について書きました。この長大なオペラにおいてドラマを進行させるのは、登場人物の歌唱と演技、舞台装置、オーケストラの演奏だけではなく、それに加えてライトモティーフです。つまり、ライトモティーフだけでドラマの今後の進行を予告したり、ライトモティーフだけで歌唱と演技の裏に隠された真の意味を説明するようなことが多々あります。従って『ニーベルングの指環』を真に "味わう" ためには、ライトモティーフを知ることが必須になってきます。 もちろん No.14-15 で書いたのはライトモティーフのごくごく一部です。ライトモティーフの全貌を知るにはどうすればよいか。一番参考になるのは、ショルティ指揮・ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の『ニーベルングの指環』全集(輸入盤・日本盤)に付けられた英国の音楽学者、デリック・クック(1919-1978)によるライトモティーフ解説でしょう。特に、日本盤CD(POCL9943-9956。14枚組)には日本語音声による解説CD(DCI-1043-1045。3枚組)が付録としてついていたので、この全集を入手できる人はそれを聴くのが一番です。 日本語の解説CDがついた全集を入手できない場合は、そのライトモティーフ解説だけを独立させて販売されている2枚組…

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No.256 - 絵画の中の光と影

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の本(岩波書店 2018)の "さわり" を紹介しました。その三浦氏が、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されていました。日経の本紙なので読まれた方も多いと思いますが、「視覚心理学が明かす名画の秘密」の続編というか、補足のような内容だったので、是非、ここでその一部を紹介したいと思います。 左上からの光 「視覚心理学が明かす名画の秘密」であったように、フェルメールの室内画のほぼすべては左上からの光で描かれています。それは何もフェルメールだけでなく、西洋画の多くが左上からの光、それも30度から60度の光で描かれているのです。その理由について No.243 であげたのは次の点でした。 ◆画家の多くは右利きのため、窓を左にしてイーゼルを立てる。描く手元が暗くならないためである。 ◆そもそも人間にとっては左上からの光が自然である。影による凹凸判断も、真上からの光より左上30度から60度からの光のときが一番鋭敏である。 三浦氏の「絵画の中の光と影 十選」には、この前者の理由である「画家は窓を左にしてイーゼルを立てる」ことが、フェルメール自身の絵の引用で説明されていました。ウィーン美術史美術館にある『画家のアトリエ(絵画芸術)』という作品です。 ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 「画家のアトリエ」(1632-1675) (ウィ…

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No.255 - フォリー・ベルジェールのバー

No.155「コートールド・コレクション」で、エドゥアール・マネの傑作『フォリー・ベルジェールのバー』のことを書きました。この作品は、英国・ロンドンにあるコートールド・ギャラリーの代表作、つまりギャラリーの "顔"と言っていい作品です。 最近ですが、中野京子さんが『フォリー・ベルジェールのバー』の評論を含む本を出版されました。これを機会に再度、この絵をとりあげたいと思います。 エドゥアール・マネ(1832-1883) 「フォリー・ベルジェールのバー」(1881-2) (96×130cm) コートールド・ギャラリー(ロンドン) マネ最晩年の傑作 まず、中野京子さんの解説で本作を見ていきます。以下の引用で下線は原文にはありません。また漢数字を算用数字に直したところがあります。 『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「Manet」と制作年「1882」が見える。この翌年、彼は51歳の若さで亡くなるのだ。 高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋きっすいのパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患りかんした梅毒ばいどくが進んで末期症状を迎え、壊死えしした片足を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺まひや痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターを設しつらえ、…

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No.254 - 横顔の肖像画

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」の続きです。No.217 ではルネサンス期の女性の横顔の肖像画で傑作だと思う作品を(実際に見たことのある絵で)あげました。次の4つです。 A:ピエロ・デル・ポッライオーロ  「若い貴婦人の肖像」(1470頃)  ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ) B:アントニオ・デル・ポッライオーロ  「若い女性の肖像」(1465頃)  ベルリン絵画館 C:ドメニコ・ギルランダイヨ  「ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)  ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード) D:ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス  「ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)  アンブロジアーナ絵画館(ミラノ) A と C はそれぞれ、ポルディ・ペッツォーリ美術館とティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっている作品です。そもそも横顔の4枚を引用したのは、ポルディ・ペッツォーリ美術館の "顔" が「A:若い貴婦人の肖像」だからでした。その A と B の作者は兄弟です。また D は、ミラノ時代のダ・ヴィンチの手が入っているのではないかとも言われている絵です。 これらはすべて「左向き」の横顔肖像画で、一般的に横顔を描く場合は左向きが圧倒的に多いわけです。もちろん「右向き」の肖像もあります。有名な例が、丸紅株式会社が所有している…

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No.253 - マッカーサー・パーク

前回の No.252「Yes・Noと、はい・いいえ」で、2012年に日本で公開された映画『ヒューゴの不思議な発明』に出てくる、ある台詞せりふを覚えているという話を書きました。それは「本は好きではないの?」という問いに対するヒューゴ少年の、  "No, I do." という返事で、変な英語(= 中学校以来、間違いだと注意されてきた英語)だったので心に残ったわけです。ただし心に残っただけで、このせりふが映画のストーリーで重要だとか、そういうことでは全くありません。 「重要ではないが、ふとしたことで覚えている映画のせりふ」があるものです。No.98「大統領の料理人」で書いたのは、フランス大統領の専属料理人であるオルタンスが言う、 (クタンシー産の牛肉は)"神戸ビーフに匹敵する" というせりふでした。『大統領の料理人』は美食の国・フランスの威信をかけて制作された(かのように見える)映画で、その映画でフランスのエリート料理人がフランス産牛肉のおいしさを表現するのに神戸ビーフを持ち出したことで "エッ" と思ったわけです。フランスの著名シェフなら、たとえ心の中では思っていたとしても口には出さないと考えたのです。 今回は、こういった「ふとしたことで覚えている映画のせりふ」を、最近の映画から取りあげたいと思います。2018年に日本で公開されて大ヒットした(というより世界中で大ヒットした)『ボヘミアン・ラプソディー』の中のせりふです。 「ボヘミアン・ラプソディー」…

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No.252 - Yes・Noと、はい・いいえ

言葉で認識し、言葉で思考する このブログで今まで日本語と英語(ないしは外国語)の対比について何回か書いてきました。今回もそのテーマなのですが、本題に入る前に以前に書いたことを振り返ってみたいと思います。なぜ日本語と英語を対比させるのかです。 人間は言葉で外界を認識し、言葉で考え、言葉で感情や意見を述べています。我々にとってその言葉は日本語なので、日本語の特徴とか特質によって外界の認識が影響を受け、思考の方法にも影響が及ぶことが容易に想像できます。 それは単に影響するというレベルに留まらず、日本語によって外界の認識が制限され、思考方法も暗黙の制約を受けると思います。どんな言語でもそうだと思うので仕方がないのですが、我々としては言葉による束縛から逃のがれて、なるべく制限や制約なしに認識し、思い込みを排して自由に考えたいし、発想したい。 それには暗黙に我々を "支配" している日本語の特徴とか特質や "くせ" を知っておく必要があります。知るためには日本語だけを考えていてはだめで、日本語以外のもの = 外国語と対比する必要があります。日本人にとって(私にとって)一番身近な外国語は英語なので、必然的に英語と対比することになります。 英語(ないしは外国語)との対比ということで過去のブログを振り返ってみますと、まず語彙レベルの話がありました。  蝶と蛾  No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたのですが、日本語(と英語)では蝶と蛾を区別しますが、ドイツ語で…

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No.251 - マリー・テレーズ

このブログではアートのジャンルで数々のピカソの絵を取り上げましたが、今回はその継続で、マリー・テレーズを描いた作品です。今までマリー・テレーズをモデルにした作品として、 ◆『マヤに授乳するマリー・テレーズ』   No.46「ピカソは天才か」 ◆『本を持つ女』   No.157「ノートン・サイモン美術館」 の2つを取り上げました。ピカソは彼女をモデルとして多数の作品をさまざまな描き方で制作していますが、今回はその中でも最高傑作かと思える絵で、『夢』(1932)という作品です。以下、例によって中野京子さんの解説でこの絵を見ていくことにします。中野さんは『夢』の解説でピカソとマリー・テレーズの出会いから彼女の死までを語っているので、それを順にたどることにします。  以下の引用では漢数字を算用数字に改めました。また段落を増減したところがあります。下線は原文にはありません。 パブロ・ピカソ(1881-1973) 「夢」(1932) (個人蔵) マリー・テレーズとの出会い 1927年のパリ。45歳のパブロ・ピカソは街で金髪の少女を見かける。溌剌はつらつたる健康美にあふれた彼女にすぐ声をかけて曰いわく、 「マドモアゼル、あなたは興味深い顔をしておられる。肖像画を描かせてください。私はピカソです」 ずんぐりした小男ながらカリスマ的魅力を放ち、すでに国際的な大画家でもあったピカソにしかできない芸当…

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No.250 - データ階層社会の到来

No.240「破壊兵器としての数学」は、アメリカのキャシー・オニールが書いた『破壊兵器としての数学』(=原題。2016年に米国で出版)の紹介でした。日本語訳の題名は『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(インターシフト 2018.7.10)です。この中でオニールはアメリカにおける、 ・教師評価システム ・USニューズの "大学ランキング" ・個人の行動履歴にもとづくターゲティング広告 ・個人の信用度あらわす "eスコア" ・個人の健康度をはかる健康スコア などをとりあげ、これらの野放図な利用がいかに社会に害悪を及ぼすか(または及ぼしているか)を厳しく警告していました。 このうち、"大学ランキング" は "組織体のランキング" ですが(日本の例として "都道府県幸福度ランキング" を書きました。No.247「幸福な都道府県の第1位は福井県」)、その他は "個人をランキングする"、ないしは "個人を分類する" ものです。そこに数学が使われているため、それが害悪になるときに「破壊兵器としての数学」だとオニールは言っているのでした。 週刊 東洋経済 (2018年12月1日号) ところで、最近の「週刊 東洋経済」(2018年12月1日号)で「データ階層社会」という特集が組まれ、現代社会において "個人をランキングしたり分類する" 動きがいかに進んでいるかを、多方面の視点から解説していました。時を得たタイムリーな特集企画だったと思ったので、そ…

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No.249 - 同位体比分析の威力

No.239「ヨークの首なしグラディエーター」で書いた話の続きです。No.239 では、イギリスのヨークで発掘された古代ローマ時代の剣闘士の遺体について、  歯のエナメル質を分析することで、剣闘士の出身地や食物が推定できる ことを書きました。ある遺体の出身地はヨークから5000キロも離れた中近東地域らしいと ・・・・・・。この分析には "安定同位体分析" という技術が使われました(No.239の「補記」参照)。最近、これと類似の話が新聞に載っていました。まずその記事を引用したいと思いますが、分析の対象は剣闘士の歯ではなく "ヤギの毛" です。 カシミヤの産地 レーザーで推定 NTTは高級毛素材であるカシミヤの産地を通信用レーザーで培った技術を使って推定する実証実験を12月に始めると発表した。すでに野菜の産地評価として実用化している技術を毛素材にも応用した。2019年夏以降のサービス化を目指す。 毛素材を品質試験するケケン試験認証センター(東京・文京)と共同で取り組む。NTT研究所が開発したレーザー光線を、気体に含まれる水蒸気や二酸化炭素などの分子を測定できる技術「レーザーガスセンシング」に応用。従来は光学顕微鏡で毛の太さなどを目視してカシミヤの産地を推定していた。レーザーガスセンシングを用いることで、簡単な作業で産地を推定できるようになるという。 レーザーガスセンシングは気体に含まれる分子に特定の波長のレーザ光を照射し、分子が光のエネルギ…

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No.248 - フェルメール:牛乳を注ぐ女

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」は、九州大学名誉教授で心理学者(視覚心理学)の三浦佳世氏が書いた同名の著書(岩波書店 2018)の紹介でした。この本の中で三浦氏は、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』を例にあげ、  この絵には線遠近法の消失点が2つあるが、違和感を感じない。人の眼は "遠近法の違反" については寛容 野田弘志 「リアリズム絵画入門」 (芸術新聞社。2010) という主旨の説明をしていました。この説明で思い出したのが、現代日本の画家、野田弘志氏が書いた『牛乳を注ぐ女』についての詳しい解説です(「リアリズム絵画入門」芸術新聞社 2010)。ここには "遠近法の違反" だけでなく、写実絵画として優れている点が詳細に語られています。今回は是非ともその文章を紹介したいと思います。 フェルメールの『牛乳を注ぐ女』はアムステルダム国立美術館が所蔵する絵で、2007年に日本で公開され、また、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)でも展示されています。実物を見た人は多いと思います。 野田弘志氏(1936~)は現代日本の写実絵画を牽引してきた画家で、No.242「ホキ美術館」で『蒼天』という作品を紹介しました。野田先生の文章は写実画家としての立場からのものですが、『牛乳を注ぐ女』はまさに写実絵画の傑作なので、本質に切り込んだ解説になっています。なお、以下の引用での下線は原文にはありません。また段…

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No.247 - 幸福な都道府県の第1位は福井県

No.240「破壊兵器としての数学」で、アメリカで一般化している "大学ランキング" の話を書きました。それからの連想で、今回は日本の都道府県のランキングの話を書きます。 No.240で紹介した "大学ランキング" は、キャシー・オニール 著「破壊兵器としての数学 - ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅おびやかすか」の紹介でした(日本語版の題名「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」)。この本の中でキャシー・オニールは、本来多様であるべき大学教育が一つの数字によるランキングで順位付けられることの不合理や弊害を厳しく指摘していました。 ただこれはアメリカの話であり、"不合理・弊害" といっても日本人としては少々実感に乏しいものです。そこで今回は日本のランキングをとりあげ、"一つの数字によるランキング" を書いてみたいと思います。こういったたぐいのランキングがどうやって算出されているのか、それを知っておくのは有用と思うからです。 とりあげるのは「都道府県 幸福度ランキング 2018年版」(寺島実郎 監修。日本総合研究所 編。東洋経済新聞社。2018.6.7発行。以下「本書」と表記)です。都道府県幸福度ランキングは、日本総合研究所が編纂するようになってから、2012年、2014年、2016年と発行されていて、今回が4回目となります。なお以下で日本総合研究所を日本総研と略することがあります。 都道府県 幸福度ランキング まず「都道府県幸福度」とい…

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No.246 - 中世ヨーロッパの奴隷貿易

今回は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。そもそも "奴隷" というテーマは、No.18「ブルーの世界」で青色染料である "藍(インディゴ)" が、18世紀のアメリカ東海岸の奴隷制プランテーションで生産されたことを書いたのが最初でした。 このブログは初回の No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」以来、樹木の枝が伸びるように、連想・関連・追加・補足で次々と話を繋げているので、"奴隷" をテーマにした記事もかなりの数になりました。世界史の年代順に並べると以下の通りです。 ◆紀元1~4世紀:ローマ帝国  No.162 - 奴隷のしつけ方  No.203 - ローマ人の "究極の娯楽"  No.239 - ヨークの首なしグラディエーター  No.162はローマ帝国の奴隷の実態を記述した本の紹介。No.203,239 はローマ帝国における剣闘士の話。 ◆8世紀~14世紀:ヨーロッパ  No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族  No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア  英語で奴隷を意味する "slave" が、民族名のスラヴと同じ語源であることと、その背景となった中世ヨーロッパの奴隷貿易。 ◆16世紀~17世紀:日本  No.33 - 日本史と奴隷狩り  No.34 - 大坂夏の陣図屏風 &em…

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No.245 - スーパー雑草とスーパー除草剤

今まで3回に渡って、主として米国における "遺伝子組み換え作物"( = GM作物)について書きました。  No.102 - 遺伝子組み換え作物のインパクト(1) No.103 - 遺伝子組み換え作物のインパクト(2) No.218 - 農薬と遺伝子組み換え作物 の3つで、特にGM作物の中でも除草剤に耐性を持つ(= 除草剤耐性型の)トウモロコシや大豆、綿花についてでした。最近ある新書を読んでいたら、その米国のGM作物の状況が出ていました。菅 正治すが まさはる氏の『本当はダメなアメリカ農業』(新潮新書 2018。以下「本書」と記述)です。 菅 正治 「本当はダメなアメリカ農業」 (新潮新書 2018) 著者の菅氏は時事通信社に入社して経済部記者になり、2014年3月から2018年2月までの4年間はシカゴ支局に勤務した方で、現在は農業関係雑誌の編集長とのことです。本書は畜産業を含むアメリカ農業の実態を書いたもので、もと時事通信社の記者だけあって資料にもとづいた詳細なレポートになっています。 そこで今回は、本書の中から「GM作物、特に除草剤耐性型のGM作物」と、GM作物とも関連がある「オーガニック(有機)作物」の話題に絞って紹介したいと思います。No.102、No.218 と重複するところがありますが、No.102、No.218 の補足という意味があります。 なお、本書全体の内容は「アメリカ農業・畜産業は極めて強大だが、数々の問題点や弱みもある」というこ…

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No.244 - ポロック作品に潜むフラクタル

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の著書の "さわり" を紹介したのですが、その中で、ジャクソン・ポロックのいわゆる "アクション・ペインティング"( = ドリップ・ペインティング)がフラクタル構造を持っているとありました。 日経サイエンス (2003年3月号) 実はこのことは 2002年の「Scientific American」誌で論文が発表されていて、その日本語訳が「日経サイエンス 2003年3月号」に掲載されました。おそらく三浦氏もこの論文を参照して「視覚心理学が明かす名画の秘密」のポロックの章を書いたのだと思います。 今回はその論文を紹介したいと思います。リチャード P. テイラー「ポロックの抽象画にひそむフラクタル」です。筆者は米・オレゴン大学の物理学の教授で、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学の物性物理学科長だった時に、ポロックの抽象画に潜むフラクタルに気づいて謎解きを始めました。 アートかデタラメか テイラー教授の論文はまず、ジャクソン・ポロックの代表作である『Blue Poles : No.11, 1952』の話から始まります。 ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 ~ 1956)は米国の美術史を代表する抽象表現主義の画家だ。彼が傑作『Blue Poles : No.11, 1952』の制作に取りかかったのは、ある3月の嵐の夜だった。すきま風が吹き込む納屋のようなアトリエで、酒…

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No.243 - 視覚心理学が明かす名画の秘密

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で、ルネサンス期の女性の横顔肖像画(= プロフィール・ポートレート。以下、プロフィール)で傑作だと思う4作品をあげました。 ◆ピエロ・デル・ポッライオーロ  「若い貴婦人の肖像」(1470頃)  ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ) ◆アントニオ・デル・ポッライオーロ  「若い女性の肖像」(1465頃)  ベルリン絵画館 ◆ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス  「ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)  アンブロジアーナ絵画館(ミラノ) ◆ドメニコ・ギルランダイヨ  「ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)  ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード) 三浦佳世 「視覚心理学が明かす名画の秘密」 (岩波書店 2018) の4作品ですが、これらはすべて左向きの顔でした。そして、「プロフィールには右向きのものもあるが(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)、数としては圧倒的に左向きが多いようだ、これに何か理由があるのだろうか、多くの画家は右利きなので左向きが描きやすいからなのか、その理由を知りたいものだ」という意味のことを書きました。 最近、ある本を読んでいたらプロフィールの左向き・右向きについての話がありました。三浦佳世『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店 2018。以下、本書)です…

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No.242 - ホキ美術館

「個人美術館」という言い方があります。これには2つの意味があって、 ◆一人のアーティストの作品だけを展示する美術館 ◆一人のコレクターが蒐集した作品だけを展示する美術館(以下、個人コレクション美術館) の2つです。今まで、バーンズ・コレクションからはじまって9つの "個人コレクション美術館" について書きました。  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ の9つの美術館です。これらはいずれもコレクターの名前を冠していました。また、フィリップス・コレクションとポルディ・ペッツォーリ美術館はコレクターの私邸がそのまま美術館となっている「私邸美術館」、ないしは「邸宅美術館」(ジャーナリストの朽木くちきゆりこ氏の表現)です。 今回はその「コレクター名を冠した個人…

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No.241 - ウリ科野菜による中毒の危険性

No.178「野菜は毒だから体によい」の関連記事です。No.178で書いたことを要約すると次のようになります。 ◆植物は昆虫や動物から守るため、毒素をもつように進化してきた。 ◆これらの毒素のなかには人間にとって "ホルミシス" を起こすものがある。ホルミシスとは、少量を摂取すると有益だが、多量に摂取ると有毒になる現象を言う。 ◆ホルミシスを起こす毒素を少量摂取すると、人間の体はそれを排除しようとして活性化する。これが人体にとって有益となる。 ◆ホルミシスの一つの例だが、カレーの香辛料の一つであるターメリックに含まれるクルクミン(黄色の物質)は、脳において活性酸素を除去する抗酸化酵素の生産を促進するように働く。これがアルツハイマー病の直接原因であるベータアミロイドの蓄積を減少させる。 ターメリックに関して思い出しましたが、よく「インド人には認知症が少ない」と言いますよね。これは疫学的にも確かなようです。これもホルミシスの効果かも、と思ったりします。 しかしホルミシスの原因物質は「微量だと益になる」わけで、毒素であることには変わりありません。薬か毒かは一つの物質の表と裏です。そしてそれは植物が敵(昆虫や動物)を撃退するために発達せた "毒" が本来の姿なのです。 この「植物に含まれる毒」に関して、意外にも身近な野菜で中毒を起こす場合があるという記事を最近読みました。今回はそれを紹介したいと思います。2018年8月9日の Yahoo Newsに、 &em…

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No.240 - 破壊兵器としての数学

No.237「フランスのAI立国宣言」で紹介した新井教授の新聞コラムに出てきましたが、マクロン大統領がパリで主催した「AI についての意見交換会」(2018年3月)に招かれた一人が、アメリカの数学者であるキャシー・オニールでした。彼女は、 「Weapons of Math Destruction - How Big Data Increases Inequality and Threatens Democracy」(2016) 「破壊兵器としての数学 - ビッグデータはいかに不平等を助長し民主主義を脅おびやかすか」 という本を書いたことで有名です。Weapons of Mass Destruction(大量破壊兵器。WMDと略される)に Math(Mathematics. 数学)を引っかけた題名です(上の訳は新井教授のコラムのもの)。この本は日本語に訳され、2018年7月に出版されました。 キャシー・オニール 著(久保尚子訳) 「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」 (インターシフト 2018.7.10) です(以下「本書」)。一言で言うと、ビッグデータを数式で処理した何らかの "結果" が社会に有害な影響を与えることに警鐘を鳴らした本で、まさに現代社会にピッタリだと言えるでしょう。今回はこの本の内容をざっと紹介したいと思います。なお、原題にある Weapons of Math Destruction は、そのまま直訳すると「数学破壊兵器…

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No.239 - ヨークの首なしグラディエーター

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、古代ローマの剣闘士の話を書きました。ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)が剣闘士の闘技会の様子を描いた有名な絵画「差し下ろされた親指」も紹介しましたが、今回はその剣闘士の話の続きです。 2004年8月、英国のイングランドの北部の町、ヨーク(York)で古代ローマ時代の墓地が発掘されました。この発掘の様子と、埋葬されていた遺体の分析が最近のテレビ番組で放映されました。 地球大紀行 WILD NATURE ヨークの首なしグラディエーター 2000年前に死んだ80人の謎を解く (BS朝日 2018年7月6日 21:00~21:55) です。これは英国の Blink Films プロダクションが制作したドキュメンタリー、"The Headless Gladiators in York(2017)" を日本語訳で放送したものですが、古代ローマの剣闘士に関する大変に興味深い内容だったので、その放送内容をここに掲載しておきたいと思います。なお、グラディエーター(=剣闘士)は英語であり、ラテン語ではグラディアトルです。 ヨークの首なしグラディエーター 2000年前に死んだ80人の謎を解く (BS朝日「地球大紀行」より。画像はヨーク市街) (site : annamap.com) 出演者 このドキュメンタリー番組は、ナレーションとともに8人の考古学者・人類学者が解説をする形をとっていま…

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No.238 - 我々は脳に裏切られる

No.149「我々は直感に裏切られる」で、極めて大きな数を私たちは想像できず、そのために直感が働かないという話を書きました。23人のクラスで同じ誕生日の人がいる確率は 50% 以上もあるとか(= バースデー・パラドックス)、10都市を巡回する全ての経路を総当たりで調べるのは家庭用パソコンで2秒で可能だが、32都市となるとスーパーコンピュータ "京" を宇宙の年齢(135億年)だけ動かしても絶対に不可能、といった話でした(総当たりでは不可能という意味)。これらの裏に潜んでいるのは日常生活とは全くかけ離れた大きさの数であり、それが直感に反する結果を招くのです。 今回は、それとは別の直感が裏切られる例をとりあげます。視覚が騙される例、いわゆる "錯視" です。もちろん錯視は昔から心理学の重要な研究テーマであり、数々の錯視図形が作られてきました。その多くは平面図形ですが、今回とりあげるのは立体の錯視です。 明治大学の杉原厚吉こうきち教授は数理工学が専門ですが、数々の立体錯視の例を作ってきた(= 発見してきた)方です。その杉原教授が日経サイエンスの2018年8月号に「立体錯視と脳の働きの関係」についての解説を書かれていました。大変興味深い内容だったので、それを紹介したいと思います。それは「我々が視覚によってまわりの立体物をどうやって認識しているのか」というテーマと深く関わっています。そしてこのテーマは人工知能の研究の重要な領域です。 エッシャーの不可能立体 杉原教授が立体の錯視に取り…

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No.237 - フランスのAI立国宣言

No.233/234/235 で、国立情報学研究所の新井紀子教授の著書「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済報社 2018.2)の内容を紹介し、感想を書きました。その新井教授ですが、最近の新聞のコラムでフランスの "AI立国宣言" について書いていました。AIと国家戦略の関係を考える上での興味深い内容だったので、それを紹介しようと思います。コラムの見出しは、  仏のAI立国宣言 何のための人工知能か 日本も示せ   (朝日新聞 2018年4月18日) です。 パリでのシンポジウム 2018年3月29日、フランス政府はパリで世界の人工知能(AI)分野の有識者を集めて意見交換会とシンポジウムを開催しました。新井教授もこの会に招かれました。 日本ではほとんど報じられていないが、人工知能(AI)分野で、地政学的な変化が起きようといている。フランスの動向だ。マクロン大統領は3月末、世界中からAI分野の有識者を招き意見交換会とシンポジウムを開催。フランスを「AI立国」とすると宣言した。2022年までに15億ユーロをAI分野に投資し、規制緩和を進める。 招待された中には、フェイスブックのAI研究を統括するヤン・ルカンやアルファ碁の開発者として名高いディープマインド(DM)社のデミス・ハサビスらが含まれた。DMは今回パリに研究拠点を置くことを決めた。 新井紀子 朝日新聞(2018.4.18) "メディア私評" 欄 フ…

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No.236 - 村上春樹のシューベルト論

前回の No.235「三角関数を学ぶ理由」で、村上春樹さんが「文章のリズムの大切さ」を述べた発言を紹介しました。これは「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社 2011。以下「本書」)からの引用でしたが、それ以前の記事でも本書の内容を紹介したことがありました。 ◆ No.135 - 音楽の意外な効用(2)村上春樹◆ No.136 - グスタフ・マーラーの音楽(1)◆ No.137 - グスタフ・マーラーの音楽(2) の3つです。本書は、指揮者・小澤征爾さんとの3回にわたる対談を村上春樹さんがまとめたものですが、その「あとがき」で小澤さんが次のように書いていたのが大変に印象的でした。 音楽好きの友人はたくさん居るけれど、春樹さんはまあ云ってみれば、正気の範囲をはるかに超えている。クラシックもジャズもだ。 小澤征爾 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 (新潮社 2011)の「あとがき」より 村上春樹「意味がなければスイングはない」 (文春文庫 2008) その "正気の範囲をはるかに超えた音楽好き" である村上春樹さんが書いた音楽エッセイ集(評論集)があります。「意味がなければスイングはない」(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)です。内容はジャズとクラシック音楽に関するものが多いのですが、ウディー・ガスリー、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、ブルース・スプリングスティーン、スガシカオもあるというように、フ…

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No.235 - 三角関数を学ぶ理由

No.233-4 で新井紀子著「AI vs.教科書が読めない子どもたち」の内容を紹介して感想を書いたのですが、引き続いてこの本の感想を書きます。 新井紀子 「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(東洋経済報社 2018.2) 本書を読んで一番感じたのは「小学校・中学校・高校での勉強は大切だ」ということです。今さらバカバカしい、あたりまえじゃないかと思われそうですが、改めて「勉強は大切」と思ったのが本書を読んだ率直な感想です。それは、AI技術を駆使した東ロボくんの "勉強方法" や 模試の成績と関係しています。また本書で説明されている「リーディング・スキル・テスト」の結果とも関連します。なぜ勉強は大切と思ったのか、その理由を順序だてて書いてみます。 ここでは「勉強」の範囲を、東ロボくんがセンター模試と東大2次試験の模試に挑戦(2016年)した、国語・英語・数学・世界史・日本史・物理の科目とし、小中学校の場合はそれに相当する教科ということにします。もちろん学校での勉強はこれだけではありません。また各種の学校行事や部活も教育の一貫だし、何よりも集団生活をすることによる "学び" が大切でしょう。 以下、小中高校の「勉強」で我々は何を学ぶのか(学んだのか・学ぶべきか)を、何点かあげてみます。 論理的に考える タイトルを「三角関数を学ぶ理由」としました。三角関数は現状の高校数学では数Ⅲであり、従って大学入試では理系ということになりますが、もちろん三角関数でなくてもいいし…

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No.234 - 教科書が読めない子どもたち

(前回より続く) 前回に引き続き、新井紀子著「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(以下「本書」)の紹介と感想です。本書は前半と後半に分かれていて、前半のAIの部分を前回紹介しました。今回は後半の「リーティング・スキル・テスト」の部分です。 リーティング・スキル・テストの衝撃 新井紀子 「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(東洋経済報社 2018.2) 新井教授は日本数学会の教育委員長として、東ロボがスタートした2011年に大学新入生を対象とした「大学生数学基本調査」を行いました。その結果、問題が解けないのは問題文の意味を理解できていない(=読解力がない)のではという疑問をもちました。そして本格的に中高生を対象とした読解力調査をすることにしました。 リーティング・スキル・テスト(RST。Reading Skill Test)は新井教授が主導して行った世界で初めての調査です。RSTとはどんなテストか、本書にその問題が例示してあります。問題は「係り受け」「照応解決」「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の6つのジャンルがあります。それがどういうものか、問題のサンプルを本書から引用します。  係り受け  次の文を読みなさい。 天の川銀河の中心には、太陽の400万倍程度の質量をもつブラックホールがあると推定されている。 この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。 …

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No.233 - AI vs. 教科書が読めない子どもたち

今回は No.175「半沢直樹は機械化できる」と No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」の続きです。 No.175 で、オックスフォード大学の研究者、カール・フレイとマイケル・オズボーンの両博士が2013年9月に発表した「雇用の未来:私たちの仕事はどこまでコンピュータに奪われるか?(The Future of Employment : How Susceptible are Jobs to Computerization ?)」という論文の内容を紹介しました。この論文は、「現存する職種の47%がAIに奪われる」として日本のメディアでもたびたび紹介されたものです。それに関連して、国立情報学研究所の新井紀子教授が「半沢直樹の仕事は人工知能(AI)で代替できる」と2013年に予想した話を書きました。半沢直樹は銀行のローン・オフィサー(貸付けの妥当性を判断する業務)であり、銀行に蓄積された過去の貸付けデータをもとにAI技術を使って機械的に行うことが可能だというものです。 No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」ではその新井教授が主導した「ロボットは東大に入れるか(略称:東ロボ)」プロジェクトの成果を紹介しました。これは大学入試(具体的にはセンター試験の模試)を題材にAIで何ができて何ができないのかを明らかにした貴重なプロジェクトです。 新井紀子 「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(東洋経済報社 2018.2) その新井教授が最近「AI vs. 教科書が読めない子…

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