No.368 - 命のビザが欲しかった理由

No.201「ヴァイオリン弾きとポグロム」に関連する話です。No.201 の記事は、シャガール(1887-1985)の絵画『ヴァイオリン弾き』(1912)を、中野京子さんの解説で紹介したものでした。有名なミュージカルの発想のもとになったこの絵画には、ユダヤ人迫害の記憶が刻み込まれています。シャガールは帝政ロシアのユダヤ人強制居住地区(現、ベラルーシ)に生まれた人です。 絵のキーワードは "ポグロム" でした。ポグロムとは何か。No.201 で書いたことを要約すると次のようになるでしょう。 ◆ ポグロムはロシア語で、もともと「破壊」の意味だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。単なるユダヤ人差別ではない。 ◆ ポグロムに加わったのは都市下層民や貧農などの経済的弱者で、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や、店を襲っての金品強奪、暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだ。 ◆ ポグロムはロシアだけの現象ではない。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト3国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まった。特に19世紀末からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れた。 ◆ 嵐が吹き荒れるにつれ、ポグロムに警官や軍人も加わるようになり、政治性を帯びて組織化した。この頂点が、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストである。 故・杉浦千畝 (朝日新聞より) その、ナチスによるホ…

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No.333 - コンクリートが巨大帝国を生んだ

今まで古代ローマについて何回かの記事を書いたなかで、ローマの重要インフラとなった各種の建造物(公衆浴場、水道、闘技場、神殿 ・・・・・・)を造ったコンクリート技術について書いたことがありました。 No.112 - ローマ人のコンクリート(1)技術 No.113 - ローマ人のコンクリート(2)光と影 の2回です。実は、NHKの番組「世界遺産 時を刻む」で、古代ローマのコンクリート技術が特集されたことがありました(2012年)。この再放送が最近あり、録画することができました。番組タイトルは、 世界遺産 時を刻む 土木 ~ コンクリートが巨大帝国を生んだ ~ NHK BSP 2022年3月2日 18:00~19:00 です。番組では現代に残る古代ローマの遺跡をとりあげ、そこでのコンクリートの使い方を詳細に解説していました。やはり画像を見ると良く理解できます。 そこで番組を録画したのを機に、その主要画像とナレーションをここに掲載したいと思います。番組の全部ではありませんが、ローマン・コンクリートに関する部分が全部採録してあります。 古代ローマのコンクリート 【ナレーション】 (NHKアナウンサー:武内陶子) 永遠の都、ローマ。立ち並ぶ巨大な建築は、ローマ帝国の栄光と力を今に示しています。その街並みを作ったのが、高度な土木技術です。 古代の最も優れた土木技術と言われるローマの水道。地下水道をささえているのはコンクリートです。円形闘技場、コロ…

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No.327 - 略奪された文化財

No.319「アルマ=タデマが描いた古代世界」で、英国がギリシャから略奪したパルテノン神殿のフリーズの話を書きました。今回はそれに関連した話題です。 エルギン・マーブル まず始めに No.319 のパルテノン神殿のフリーズの話を復習すると次の通りです。 ◆ 1800年、イギリスの外交官、エルギン伯爵がイスタンブールに赴任した。彼はギリシャのパルテノン神殿に魅了された。当時ギリシャはオスマン・トルコ帝国領だったので、エルギン伯はスルタンに譲渡許可を得てフリーズを神殿から削り取り、フリーズ以外の諸彫刻もいっしょに英国へ送った。 ◆ 数年後、帰国したエルギン伯はそれらをお披露目する。芸術品は大評判となるが、エルギン伯の評判はさんざんだった。「略奪」と非難されたのだ。非難の急先鋒は "ギリシャ愛" に燃える詩人バイロンで、伯の行為を激しく糾弾した。 ◆ 非難の嵐に嫌気のさしたエルギン伯は、1816年、フリーズを含む所蔵品をイギリス政府に売却した。展示場所となった大英博物館はそれらを「エルギン・マーブル(Elgin Marble)」、即ち「エルギン伯の大理石」という名称で公開し、博物館の目玉作品として今に至る。 パルテノン神殿のフリーズ - 大英博物館 - (Wikimedia Commons) ◆ 実は、古代ギリシャ・ローマの彫像や浮彫りは驚くほど極彩色で色づけされていたことが以前から知られていた。わずかながら色が残存し…

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No.269 - アンドロクレスとライオン

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で古代ローマの円形闘技場で行われた剣闘士の闘技会のことを書いたのですが、その時に思い出した話がありました。今回は No.203 の補足としてその話を書きます。 まず No.203 の復習ですが、紀元2世紀ごろのローマ帝国の闘技会はふつう午後に行われ、午前中にはその "前座" が開催されました。1日のスケジュールは次のようです。 ◆ 野獣狩り(午前) ライオン、ヒョウ、クマ、鹿、ガゼル、ダチョウなどを闘獣士が狩る(殺す)ショー。猛獣の中には小さいときから人間を襲うように訓練されたものあり、そういう猛獣と闘獣士は互角に戦った。 ◆ 公開処刑(午前) 死刑判決を受けた罪人の公開処刑。処刑の方法はショーとしての演出があった。罪人が猛獣に喰い殺される "猛獣刑" もあった。 ◆ 闘技会(午後) 剣闘士同士の試合(殺し合い)。剣闘士には、武器と防具、戦い方によって、魚剣闘士、投網剣闘士、追撃剣闘士などの様々な種類があった。 No.203 では、アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社 2010)を引用してそれぞれの様子を紹介しました。この本は最新のローマ研究にもとづき、紀元115年のトラヤヌス帝の時代の首都ローマの1日を実況中継風に描いたものです。その中の野獣狩り・公開処刑のところで思い出した話がありました。「アンドロクレスとライオン」という話です。それを以下に書きます。 …

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No.246 - 中世ヨーロッパの奴隷貿易

今回は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。そもそも "奴隷" というテーマは、No.18「ブルーの世界」で青色染料である "藍(インディゴ)" が、18世紀のアメリカ東海岸の奴隷制プランテーションで生産されたことを書いたのが最初でした。 このブログは初回の No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」以来、樹木の枝が伸びるように、連想・関連・追加・補足で次々と話を繋げているので、"奴隷" をテーマにした記事もかなりの数になりました。世界史の年代順に並べると以下の通りです。 ◆紀元1~4世紀:ローマ帝国  No.162 - 奴隷のしつけ方  No.203 - ローマ人の "究極の娯楽"  No.239 - ヨークの首なしグラディエーター  No.162はローマ帝国の奴隷の実態を記述した本の紹介。No.203,239 はローマ帝国における剣闘士の話。 ◆8世紀~14世紀:ヨーロッパ  No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族  No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア  英語で奴隷を意味する "slave" が、民族名のスラヴと同じ語源であることと、その背景となった中世ヨーロッパの奴隷貿易。 ◆16世紀~17世紀:日本  No.33 - 日本史と奴隷狩り  No.34 - 大坂夏の陣図屏風 &em…

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No.239 - ヨークの首なしグラディエーター

No.203「ローマ人の "究極の娯楽"」で、古代ローマの剣闘士の話を書きました。ジャン = レオン・ジェローム(1824-1904)が剣闘士の闘技会の様子を描いた有名な絵画「差し下ろされた親指」も紹介しましたが、今回はその剣闘士の話の続きです。 2004年8月、英国のイングランドの北部の町、ヨーク(York)で古代ローマ時代の墓地が発掘されました。この発掘の様子と、埋葬されていた遺体の分析が最近のテレビ番組で放映されました。 地球大紀行 WILD NATURE ヨークの首なしグラディエーター 2000年前に死んだ80人の謎を解く (BS朝日 2018年7月6日 21:00~21:55) です。これは英国の Blink Films プロダクションが制作したドキュメンタリー、"The Headless Gladiators in York(2017)" を日本語訳で放送したものですが、古代ローマの剣闘士に関する大変に興味深い内容だったので、その放送内容をここに掲載しておきたいと思います。なお、グラディエーター(=剣闘士)は英語であり、ラテン語ではグラディアトルです。 ヨークの首なしグラディエーター 2000年前に死んだ80人の謎を解く (BS朝日「地球大紀行」より。画像はヨーク市街) (site : annamap.com) 出演者 このドキュメンタリー番組は、ナレーションとともに8人の考古学者・人類学者が解説をする形をとっていま…

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No.232 - 定住生活という革命

No.226「血糖と糖質制限」で、夏井 睦まこと氏の著書である『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書 2013)から引用しましたが、その本の中で西田正規まさき氏(筑波大学名誉教授)の『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫 2007。単行本は1986年出版)に沿った議論が展開してあることを紹介しました。今回はその西田氏の「定住革命」の内容を紹介したいと思います。 定住・土器・農業 まず No.194「げんきな日本論(1)定住と鉄砲」で書いた話からはじめます。No.194 は、2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対談を本にした『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)を紹介したものですが、この本の冒頭で橋爪氏は次のような論を展開していました。 ◆農業が始まる前から定住が始まったことが日本の大きな特色である。日本は、定住しても狩猟採集でやっていける環境にあった。世界史的には、農業が始まってから定住が始まるのが普通。 ◆定住の結果として生まれたのが土器である。土器は定住していることの結果で、農業の結果ではない。農業は定住するから必ず土器をもっているけども、土器をもっているから農業をしているのではない。 橋爪大三郎氏の論を要約 『げんきな日本論』より 日本の土器は極めて古いことが知られています。世界史的にみてもトップクラスに古い。この土器は農業とワンセットではありません。土器は定住とワンセットであり「定住+狩猟採集」が縄文時代を通じて極めて長期間続いたのが(…

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No.203 - ローマ人の "究極の娯楽"

今まで古代ローマに関する記事をいくつか書きました。リストすると次の通りです。  No. 24ローマ人の物語(1)寛容と非寛容  No. 25ローマ人の物語(2)宗教の破壊  No. 26ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ  No. 27ローマ人の物語(4)帝国の末路  No.112ローマ人のコンクリート(1)技術  No.113ローマ人のコンクリート(2)光と影  No.123ローマ帝国の盛衰とインフラ  No.162奴隷のしつけ方 発端は、No.24-No.27 で塩野七生氏の大作『ローマ人の物語』の感想を書いたことでした。ローマ人の宗教だけに絞った感想です。また、No.112、113、123 はインフラストラクチャ(のうちの建造物)の話で、その建設に活躍した古代ローマのコンクリートの技術のことも書きました。No.162 は奴隷制度の実態です。 今回はこの継続で、古代ローマの円形闘技場で繰り広げられた闘技会のことを書きたいと思います。「宗教 = ローマ固有の多神教・キリスト教」や「巨大建造物・コンクリート技術」は、古代ローマそのままではないにしろ現代にも相当物があり、私たちが想像しやすいものです。奴隷制度は現代では(原則的に)ありませんが、奴隷的労働はあるので、それも想像しやすい。 しかし大観衆が見守る円形闘技場での "剣闘士の殺し合い" は現代人の想像を越えていて、そこが非常…

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No.198 - 侵略軍を撃退した日本史

No.37「富士山型の愛国心」の中で元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)についてふれたのですが、今回はその継続というか、補足です。 最近の新聞に、元寇について近年唱えられた説の紹介がありました。日本の勝因は「神風」ではなかったという説です。それを紹介したいと思います。 日本の勝因は「神風」ではなかった くまもと文学・歴史館の館長・服部英雄氏(日本中世史)は著書の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)で「神風=暴風雨」説を否定し、学界の内外にセンセーションを巻き起こしました。 (神風が勝因という)見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。 元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。 では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。…

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No.195 - げんきな日本論(2)武士と開国

(前回から続く)江戸時代の武士という特異な存在 橋爪大三郎・大澤真幸 「げんきな日本論」 (講談社現代新書 2016) 第16章「なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか」には、江戸時代における武士が論じられています。まずイエ制度にささえられた幕藩体制の話があり、その中での武士の存在が議論されています。以下のようです。  幕藩体制  徳川家康が作った「幕藩体制」において、日本は300程度の独立国ないしは自治州(藩)に別れ、各藩は徴税権、裁判権、戦闘力を持っていました。圧倒的な軍事力は幕府にはありません。直接国税もない。それでいて250年ものあいだ平和が続いたのは驚異的です。なぜ平和が維持できたのか。 《大澤》 「空気」ってあるじゃないですか。空気を読むとか。空気は、全員の総意だという想定になっていて、誰もがそれを前提に行動するわけですが、実は個人的には全員、空気と違っていることを思っているということがあります。しかも、そのことを、つまりほとんどの人が個人的には空気とは違った見解をもっているということを誰もが知っている。それでも空気は機能し、人びとの行動は空気に規定される。幕藩体制にこれに似たものを感じます。 この場合、空気に帰せられている判断は、徳川家(幕府)がずば抜けて強いということ。関ヶ原の戦いに勝った以上は、徳川家が圧倒的に強い、ということになっている。まあ、強いことは強いんですよ。しかし、その強さは、相対的なもので、絶対に勝…

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No.194 - げんきな日本論(1)定住と鉄砲

No.41、No.42で2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対論を本にした『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2012)を紹介しました。この本はキリスト教の解説書ではなく、"西欧社会を作った" という観点からキリスト教を述べたものです。社会学の視点から宗教を語ったという点で、大変興味深いものでした(2012年の新書大賞受賞)。 橋爪大三郎・大澤真幸 「げんきな日本論」 (講談社現代新書 2016) その橋爪氏と大澤氏が日本史を論じた本を最近出版されたので紹介したいと思います。『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)です。「二匹目のドジョウ」を狙ったのだと思いますが、社会学者が語る日本史という面で数々の指摘があって、大変におもしろい本でした。多数の話題が語られているので全体の要約はとてもできないのですが、何点かをピックアップして紹介したいと思います。 ・・・・・・・・・・ そもそも我々は「日本論 = 日本とは何か」に興味があるのですが、それは本質的には「自分とは何か」を知りたいのだと思います。日本語を使い、日本文化(外国文化の受容も含めて)の中で生活している以上、"自分" の多くの部分が "日本" によって規定されていると推測できるからです。 「日本とは何か」を知るためには「日本でないもの」や「諸外国のこと」、歴史であれば「世界史」を知らなければなりません。社会学とは簡単に言うと、社会はどうやって成り立っているか(成り立ってきたか)を研究する学問であり…

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No.162 - 奴隷のしつけ方

今まで「古代ローマ」と「奴隷」について、いくつかの記事を書きました。「古代ローマ」については塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』の感想を書いたのが始まりで(No.24-27)、以下の記事です。 No.24-27「ローマ人の物語」No.112-3「ローマ人のコンクリート」No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」 また「奴隷」については No.18「ブルーの世界」で、青色染料の "藍あい" が、18世紀にアメリカのサウス・カロライナ州の奴隷制プランテーションで生産されたという歴史を書いたのが発端でした。 No.18「ブルーの世界」No.22-23「クラバートと奴隷」No.33「日本史と奴隷狩り」No.34「大坂夏の陣図屏風」No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」No.109「アンダーソンヴィル捕虜収容所」 この「古代ローマ」と「奴隷」というテーマの接点である「ローマ帝国の奴隷」について解説した本が2015年に出版されました。『奴隷のしつけ方』(ジェリー・トナー著。橘明美訳。太田出版。2015)という本です。その内容の一部を紹介し、読後感を書きたいと思います。 『奴隷のしつけ方』 ジェリー・トナー 「奴隷のしつけ方」 (橘明美訳。太田出版。2015) 『奴隷のしつけ方』の著者は、英国・ケンブリッジ大学のジェリー・トナー教授で、教授は古代ローマの社会文化史の専門家です。この本の特徴は、紀元1~2世紀のローマ帝国の架空の人物、"マルクス・シドニウス・ファルクス" が「…

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No.123 - ローマ帝国の盛衰とインフラ

No.112-113「ローマ人のコンクリート」の続きです。 古代ローマ人は社会のインフラストラクチャー(道路・街道、上水道・下水道、城壁、各種の公共建築物、など。以下、インフラ)を次々と建設したのですが、その建設にはコンクリート技術が重要な位置を占めていました。またその建設資金は、元老院階級(貴族)の富裕層の寄付が多々あったことも書きました。 No.112 に写真を掲げたインフラの中に、「ポン・デュ・ガール」(世界遺産)がありました。これは南フランスの都市、ニームに水を供給するために敷設された「ニーム水道」の一部です。古代ローマ人の驚異的なインフラ建設技術を物語るものなので、写真と図を掲載しておきます。 ポン・デュ・ガール(Wikipedia) ポン・デュ・ガール付近に残る、ニーム水道の遺跡。 (http://www.avignon-et-provence.com/) 「ニーム水道」のルートを示した図。水源地のユゼス(上方)からニーム(左下)までの直線距離は約20kmであるが、水道は約50kmもある。水源からニームの町はずれのカステルム(貯水槽)までの高低差はわずか12m程度で、平均すると1kmで24cmの傾斜がついていることになる(=1000分の0.24の勾配)。そのため導水路は、途中の山地を避けつつ、できるだけ平坦になるように曲がりくねって建設された。 ポン・デュ・ガール付近を拡大した図。青色がガルドン川(その古名がガール川)で、ローヌ川に合流する。緑色が導水路で…

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No.113 - ローマ人のコンクリート(2)光と影

(前回から続く)建造物の例 前回に書いたローマン・コンクリートを活用した建造物の例を2点だけあげます。  パンテオン  前回に何回か言及したローマのパンテオンはコンクリートによる建築技術の結晶です。この建築は「柱廊玄関」と「円堂」からなり、円堂の高さと直径は44mです。円堂は以下のような構造をしています。 ドーム直径44mの半球形。上に行くほど壁厚を薄くして重量を軽減している。 壁高さ30m、厚さ6.2m の円筒型。窓や開口部を設けて重量を軽減している。 基礎幅.7.3m 深さ4.5mの地下構造物。 円堂は基礎を含めて全体がローマン・コンクリートの塊であり、このような複雑な構造物はコンクリートの使用ではじめて可能になったものです。パンテオンは古代ローマ時代のものが完全な形で残っている希な建造物です。 パンテオン断面図と立面図 塩野七生「ローマ人の物語 第9巻 賢帝の世紀」より。直径43.3メートルの球が描きこんである。 パンテオンの内部 ドームを見上げた写真。右下の明るいところは天井の穴から差し込んだ光である。  公衆浴場  建築物の他の例として公衆浴場(テルマエ)をあげておきます。写真と平面図はカラカラ浴場です。現在、遺跡として残っているのは一部ですが、平面図からは当時の威容が想像できます。浴場部分だけで200m×100mもあります。 カラカラ浴場遺跡 (site : www.archeorm…

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No.112 - ローマ人のコンクリート(1)技術

ローマ人の物語 No.24 - 27 の4回に渡って、塩野七生・著「ローマ人の物語」をとりあげました。 No.24 - ローマ人の物語(1)寛容と非寛容 No.25 - ローマ人の物語(2)宗教の破壊 No.26 - ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ No.27 - ローマ人の物語(4)帝政の末路 の4つです。 「ローマ人の物語」は全15巻に及ぶ大著であり、1000年以上のローマ史がカバーされています。そこで語られている多方面の事項についての感想を書くことはとてもできません。そこで No.24 - 27 では「宗教」の観点だけの感想を書きました。 今回はその継続で「インフラストラクチャー」をとりあげます。 インフラストラクチャー 『ローマ人の物語』の大きな特長は 第10巻すべての道はローマに通ず という巻でしょう。一冊の内容全部が、ローマ人が作り出した「社会インフラ」の記述に当てられています。ちなみに目次は、  第1部 ハードなインフラ  1.街道 2.橋 3.それを使った人々 4.水道 第2部 ソフトなインフラ  1.医療 2.教育 となっていて、医療や教育の制度までをカバーしています。もちろんローマ人が作った「ハードなインフラ」は街道・橋・水道だけでなく、港、神殿、公会堂(バジリカ)、広場、劇場、円形闘技場、競技場、公衆浴場、図書館などがありました。ソ…

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No.109 - アンダーソンヴィル捕虜収容所

No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」の続きです。No.104では、朝日新聞の奴隷解放宣言についての解説記事(2013.5.13)の見出しである、  人種差別主義者だった? リンカーン という表現について、 ◆「人種差別主義者」というような言葉を新聞記事の見出しにするのは良くない。誤解を招く。 ◆リンカーンが生きた時代のアメリカでは「人種差別」が普通のことであり、現代の価値観で過去を判断してはいけない。 という主旨のことを書きました。 政治家はリーダーシップで国を導いていくものですが、同時にその国・その時代の大衆の意識や意見に影響されます。世論と極端に違う意見を、政治家は(特に国政の中枢に行こうとする政治家は)とれない。アメリカは民主主義国家なのです。 しかし見出しはともかく、朝日新聞の解説記事では奴隷解放とその背景となった南北戦争について、3つの重要な指摘をしていました。 ①リンカーンは人種差別の考え方をもっていた。 ②奴隷解放で形の上では平等になっため、逆に黒人に対する圧迫が強くなった。 ③南北戦争の死者は、第2次世界大戦での米軍の死者を上回る62万人であり、都市の徹底破壊や殲滅せんめつ戦が行われるなど近代戦の幕開けとなった。 の3点です。今回はこの3つの指摘について考えてみたいを思います。3つのうち、「①リンカーンが人種差別の考え方をもっていた」ことは、No.104「リンカーンと奴隷解放宣言」の「補記」で引用…

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No.104 - リンカーンと奴隷解放宣言

このブログの記事で、今まで何回か歴史上の「奴隷」についての記述をしました。  No.18「ブルーの世界」  18世紀アメリカ(サウス・カロライナ州)において、奴隷制プランテーションで青色染料・インディゴが生産されたこと。 No.19「ベラスケスの怖い絵」  17世紀のスペイン王室での奴隷の存在。特に「慰み者」と呼ばれた異形の人たち。 No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」  中世西ヨーロッパ(8~11世紀)における奴隷交易。奴隷になったのは中央ヨーロッパのスラヴ民族。 No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」  同じく中世ヨーロッパ(12~15世紀)におけるヴェネチアの奴隷交易。奴隷になったのは黒海沿岸の人々。 No.33「日本史と奴隷狩り」  戦国時代の戦場における「奴隷狩り」と、ポルトガル人による日本人奴隷の「海外輸出」。 の5つです。その継続で、今回は「リンカーンの奴隷解放宣言」についてです。なぜこのテーマかと言うと、最近の(と言っても半年以上前ですが)朝日新聞に奴隷解放宣言についての解説記事(2013.5.13)が掲載されたことを思い出したからです。その記事の要点も、あとで紹介します。 奴隷解放宣言 そもそも「奴隷解放宣言」は、南北戦争の途中で出されたものであり、それはリンカーン大統領率いる合衆国(=北軍)が、南部連合(=南軍)との南北戦争を戦うための「大義」を「後づけで」示…

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No.75 - 結核と初キス

前回の No.74「現代感覚で過去を見る落とし穴」を連想させる日本経済新聞の記事が最近あったので、その記事を紹介したいと思います。作家の渡辺 淳一氏が連載している『私の履歴書』です。 渡辺淳一「私の履歴書」 2013年1月12日付の日本経済新聞の『私の履歴書』で、渡辺 淳一氏は以下のような文章を書いていました。札幌南高等学校のときに同級生の加清かせい純子という女性と恋をした話です。その女性は絵が大変に上手で、中学生の頃から「天才少女画家」と言われていたようです。渡辺少年は純子と知り合って逢瀬を重ねます。そして高校3年生になりました。 図書館での逢瀬  - ためらいつつ初キス  受験控え会えない日々へ - ・・・・・・・・・・・・・・・・ 間もなく、私が高校3年生になり、図書部の部長になったので、図書部の部員室の鍵を自由に持ち歩くことができたので、夜、部員室で2人だけで密会した。 彼女は此処にウイスキーや煙草たばこを持ってきて、わたしも誘われるままに飲んでいたが、ある夜、突然、純子に「キスをして」といわれた。 思わず、わたしは応じかけたが、咄嗟とっさに、彼女が肺結核で、血を吐いたことを思い出した。ここで接吻せっぷんをしたら、自分も結核に感染してしまう。 怯おびえて戸惑っていると、彼女が「できないの?」とつぶやき、それに誘われるようにわたしは思いきって、接吻をした。 そのまま、彼女の舌がわたしの口の中でゆらめくのを感…

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No.74 - 現代感覚で過去を見る落とし穴

前回のNo.73「ニュートンと錬金術」で書いたように「大坂夏の陣図屏風・左隻」と「ニュートンの錬金術研究」の教訓は、 現代人が「あたりまえ」か「常識」と思うことが、過去ではそうではない という至極当然のことであり、往々にして我々はそのことを忘れがちだということです。 ◆過去の人間の意識や文化、技術は現代とは相違する(ことが多い)。◆(暗黙に)現代人の感覚で過去を眺めて判断してはいけない という視点で考えると、いろいろのことが思い浮かびます。それを2点だけ書いてみたいと思います。一つは古代文明の巨大遺跡に関するものです。 古代文明の巨大遺跡 (site : ペルー政府観光局)ペルーに「ナスカの地上絵」と呼ばれる有名な世界遺産があります。そもそも、地上からは全体像が分からない「絵」を、いったい何のために作ったのか。 「絵」が作られた当時に空を飛ぶ何らかの装置があったとか、宇宙人へのメッセージだとかの説がありました。ほとんどオカルトに近いような空想ですが、このような説が出てくる背景を推測してみると、次のようだと思います。 ①現代人なら、自分たちでは全体像を把握できない絵を、多大な労力をかけて作ったりはしない(これは正しい)。②ペルーの「ナスカの地上絵」の時代(B.C.2世紀~A.D.6世紀)の人も、現代人と同じ考えだろうと(無意識の内に)思ってしまう。③従って、何らかの手段で地上絵の全体像を見る手段が当時にあったのだろう、と推測する。 というわけです。 間…

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No.73 - ニュートンと錬金術

「大坂夏の陣図屏風」についての誤解 No.34「大坂夏の陣図屏風」で、この屏風の左隻に描かれているシーンについて以下の主旨のことを書きました。 ◆大坂夏の陣図屏風・左隻には徳川方の武士・雑兵が、逃げまどう非戦闘員に対し暴力行為・略奪・誘拐(これらを「濫妨狼藉」という)をする姿が描かれている。 ◆しかしこの屏風について「市民が戦争に巻き込まれた悲惨な姿を描き戦争を告発した、ないしは徳川方の悪行を告発した」というような見方は当たらない。 ◆戦国時代の戦場において濫妨狼藉は日常的に行われていた(藤本久志『雑兵たちの戦場』。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。それはむしろ戦勝側の権利でさえあった。大坂夏の陣図屏風は徳川方の戦勝記念画であり、その左隻は「戦果」を描いたものと考えるのが自然である。 ◆大坂夏の陣図屏風・左隻を「戦国のゲル二カ」と称したNHKの番組があったが、ピカソの「ゲル二カ」とは意味が全く違う。「ゲルニカ」は無差別爆撃を行った当時のファシスト軍を告発したものだが、大坂夏の陣図屏風・左隻は徳川方を告発したものではないし、豊臣家への挽歌でもない。 ◆もし現代人が「一般市民が戦争に巻き込まれた悲惨な姿」を描いたのなら、それは「戦争を告発」したものであることは確実である。しかしそういう現代の視点で過去を見ると落とし穴にはまり、誤解してしまう。 大坂夏の陣図屏風・左隻。第3扇(部分。左)と第5扇(部分。右) 過去の文化・技術・人々の意識は、現代のそれとは違い…

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No.34 - 大坂夏の陣図屏風

前回の、No.33「日本史と奴隷狩り」で、藤本久志 著『新版 雑兵たちの戦場』に添って戦国時代の「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」の実態を紹介したのですが、この本の表紙は「大坂夏の陣図屏風」の左隻(させき)の一部でした。今回はこの屏風についてです。 なお、以下の図は『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』(中央公論社 1988)から引用しました。また絵の解説も、この本を参考にしています。 大坂夏の陣図屏風・左隻 「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)は六曲一双の屏風です。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。 黒田長政は黒田官兵衛の長男として播磨・姫路城で生まれ、秀吉に仕えた戦国武将でした。秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となります。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になりました。 「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれています。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれています。この左隻の中に『雑兵たちの戦場』の表紙になった「濫妨狼藉の現場」が描かれているのです。その左隻の第1扇から第6扇までを以下に掲げます。 大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第1扇(右)から第3扇 …

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No.33 - 日本史と奴隷狩り

No.22, No.23 の「クラバートと奴隷」では、スレイヴ(奴隷)の語源がスラヴ(=民族名)である理由からはじまって、中世ヨーロッパにおける奴隷貿易の話を書きました。そこで、中世の日本における奴隷狩りや奴隷交易のこともまとめておきたいと思います。 山椒大夫 日本における「奴隷」と聞いてまず思い出すのは、森鷗外の小説『山椒大夫』です。この小説は「人買い」や「奴婢(奴隷)」が背景となっています。以下のような話です。 陸奥の国に住んでいた母と2人の子(姉が安寿、弟が厨子王)が、筑紫の国に左遷された父を訪ねていきます。途中の越後・直江の浦(現在の直江津)で人買いにつかまり、母は佐渡の農家に売られ、2人の子は丹後・由良の山椒大夫に売られます。 2人の子は奴婢として使役されますが、姉は意を決して弟を脱出させ、自らは入水自殺します。弟は国分寺の住職に救われ、都に上って関白師実もろざねの子となります。そして丹後の国守に任ぜられたのを機に、人の売買を禁止します。そして最後の場面で佐渡に旅し、鳥追いになっていた盲目の母と再会します。 物語のはじめの部分において、二人の人買いは親子三人を拉致したあと「佐渡の二郎」は母親を佐渡へ売りにいき「宮崎の三郎」は安寿と厨子王を、佐渡とは反対の方向へ海づたいに買い手を探して南下します(宮崎は今の富山県の地名)。その南下の様子を「山椒大夫」から引用すると、次のとおりです。 こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能…

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No.28 - マヤ文明の抹殺

前回の No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところで、 「民族伝統の神々の破壊」はローマやコンスタンチノープルという首都だけでなく、ローマ帝国全域で行われました。さらにその後のヨーロッパの歴史をみると、ローマ帝国の領域の周辺へと「民族伝統の神々の破壊活動」が拡大していきます。 と書きました。今回はその補足です。「民族伝統の神々の破壊活動」はその後も延々と続けられ、ヨーロッパの外へと波及していきました。そして16世紀にその波は日本にまでやってきます。つまりキリシタン大名といわれる人たちの一部は、領内の寺院・神社を破壊しました。高山 右近(高槻、明石)がそうですし、大村 純忠(肥前)は寺院や神社の破壊だけでなく領内の墓所まで壊したはずです。しかし日本におけるこのような動きはごく一部であり、その後の幕府の強力なキリシタン禁制でなくなりました。逆に教会が破壊され、多数の殉教者を出すことになったわけです。 しかしアメリカ大陸へと波及した「民族伝統の神々の破壊活動」は、日本とは様相が違ったのです。 マヤ文明 チチェン・イッツァ遺跡マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神)を祀る。春分と秋分の日に太陽が沈む時、遺跡は真西から照らされ、階段の西側に蛇が身をくねらせた姿が現れる。マヤ文明は中米に興った文明です。現在の国名ではメキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラスなどに相当します。この地の文明は紀元前から始まり、紀元200年ごろから大きな都市が建設されはじめまし…

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No.27 - ローマ人の物語(4)帝政の末路

(前回より続く)帝政による「ローマ文化」の破壊 キリスト教の国教化に至る道筋を読んで強く印象に残るのは、キリスト教徒を組織的に迫害したすぐ後の皇帝がキリスト教を公認しているということです。 ディオクレティアヌス帝(285-305)は「ローマ史上初めての本格的かつ組織的なキリスト教弾圧(第13巻:最後の努力)」に乗り出します。303年の「キリスト教弾圧勅令」は、 ◆キリスト教教会の破壊◆信徒の集まり、ミサ、洗礼式などの行事の厳禁◆聖書、十字架などを没収し焼却◆教会財産の没収◆キリスト教徒の公職追放 という徹底ぶりです。キリスト教を根絶しようという非常に強い意図が感じられます。 ところがその直後の皇帝・コンスタンティヌス(306-337)は、312年に有名なミラノ勅令を出してキリスト教を公認します。勅令は公認しただけであって国教としたわけではありませんが、その後のコンスタンティヌス帝は国教化に向けた動きとしか思えない行動に出るのです。この時点からテオドシウスス帝(379-395)による392年のキリスト教の国教化は一直線です。 ディオクレティアヌス帝によるキリスト教の根絶を目指した大弾圧と、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認。このわずか8年の間に行われた、大弾圧から公認という政策の大転換に、帝国としての統一的な考えがあったとはとても思えません。 では、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認の理由は何でしょうか。それは塩野さんによると「支配の道具としてキリ…

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No.26 - ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ

(前回より続く)古代地中海世界における宗教 前回、宗教上の像や施設の破壊の経緯を「ローマ人の物語」から引用しました。以降では、古代地中海世界における宗教がどういうものだったかを振り返り、宗教の破壊がどういう意味をもつのかについての想像を巡らせてみたいと思います。 現代の我々日本人は、多くの人が冠婚葬祭やお正月は別として日常は宗教と疎遠な生活をしています。また政治に特定の宗教が影響するということは、政教分離が原則の国家では考えられません。しかし古代では邪馬台国の卑弥呼がそうであったように宗教は日常生活を支配していたし、政治や軍事とまでも結びついていました。No.8「リスト:ノルマの回想」で書いたベッリーニのオペラ「ノルマ」では、ドルイド教の巫女の神託でローマ軍との不戦(ないしは開戦)が決まるわけです。オペラはあくまでフィクションですが、このように神託で政治や軍事が動く例は、古代中国でも邪馬台国でもエジプトでもガリアでもマヤでも、世界各国にいっぱいあったわけです。 では古代地中海世界のギリシャ・ローマではどうだったのかというと、やはり神託で政治が動く例は多々ありました。まず思い出すのはギリシャにおけるデルフォイ(デルポイ)の神託です。デルフォイはパルナッソス山(アテネの西方)の麓にあった都市国家で、アポロン神殿がありました。ここでデルフォイの巫女(ピュティア)が神託を告げます。この神託はギリシャの人々に珍重され、ポリスの政策決定にも影響を与えました。ギリシャの各都市はここに財産庫を構…

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No.25 - ローマ人の物語(2)宗教の破壊

(前回より続く)ローマの衰退 本題のローマの衰退についてです。「ローマ人の物語」は「キリスト教の国教化が、ローマの衰退から滅亡への最後の決定的な要因になった」と言っているのだと思います。このようにダイレクトに書かれた箇所はなかったかと思いますが、その有力な「状況証拠」としては第14巻が「キリストの勝利」題されていることです。これは「ローマの敗北」の裏返しです。 もちろん「キリスト教の国教化」に至った背景には、そうなるぐらいにキリスト教が広まったということがあるわけです。キリスト教徒は最も多い都市で5%と書かれています。5%というと少ないようですが、これ以外に人口の何分の1かの「シンパ」がいるはずだから、それなりの数ではあるわけです。広まった理由としては、経済の混乱や、度重なる外敵の進入、疫病の流行などによるローマ市民の救いを求める心情があるようです。キリスト教徒の拡大の理由については、「第12巻:迷走する帝国」に詳細な分析が書かれています。 ローマの衰退や滅亡の要因にはキリスト教以外の要因もさまざまなものが考えられます。前回の No.24 「ローマ人の物語 (1) 」にも書いたように、領土が固定化され、奴隷の新規獲得もなくなり、市民権をもつ人が増え、それ以上のローマ化を多くが望まなくなったとき、しかも軍隊が傭兵だらけになったとき、ローマの国家の活力を維持していたダイナミックなメカニズムは働かなくなると思うし、その方が衰退要因としては大きいと感じます。また、No.16「ニーベルング…

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No.24 - ローマ人の物語(1)寛容と非寛容

No.7「ローマのレストランでの驚き」で、ローマのカピトリーノ美術館の「マルクス・アウレリウス帝の騎馬像」について「唯一、ローマ皇帝の騎馬像で破壊をまぬがれたもの」と書きました。これは、塩野 七生 著「ローマ人の物語」に沿って記述しているわけです。またNo.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」でも、ローマ帝国の銀貨改鋳の歴史を「ローマ人の物語」から引用しました。 その「ローマ人の物語」についての感想を書いてみたいと思います。「ローマ人の物語」は全15巻という大著であり、感想を書き出したらきりがなくなります。ここでは、著者の塩野さんが書いている「ローマの隆盛と滅亡の要因、特に滅亡の要因」に絞って記述したいと思います。なお「ローマ」とは、塩野さんの考えに従って「古代ローマの建国から西ローマ帝国の滅亡までの、ローマという都市を中心(首都)とする国をさすもの」とします。 前提事項-1 歴史を素材とする小説 まず断っておくべき前提事項が3点あります。第1点は「ローマ人の物語」は歴史書というより小説に近いということです。つまりこの本は「過去の歴史研究に基づくローマの歴史、特に政治史・軍事史を素材にし、それを詳細に記述する中で著者の人間観や社会観を述べた小説」と考えた方がよいと思います。従って「ローマ帝国滅亡の原因」というような歴史研究の範疇に属するテーマは本書の第1の主旨ではないわけです。この本はあくまで、随所に記述されている塩野さんの「人間性や社会の本質」に迫ろうとする多様…

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No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア

(前回より続く) 前回の No.22「クラバートと奴隷(1) 」の最後に、ヨーロッパの商人は、中央ヨーロッパとは別の奴隷の仕入れ先を開拓、と書きました。ヴェネチアの興亡を描いた、塩野七生著「海の都の物語」には、前回の中世ヨーロッパとは別のタイプの奴隷貿易が書かれています。 第4回十字軍と黒海貿易 ドラクロア 『十字軍のコンスタンティノープル入城』(1841) (ルーブル美術館)[Wikipedia]ドラクロアの、いわゆる「三虐殺画」の1枚。他の2枚と違って虐殺する方もされる方もキリスト教徒である。 聖地エルサレムのイスラム教徒からの回復を目的とした十字軍(第1次十字軍は11世紀末。1096年)ですが、北部ヨーロッパでは12世紀に「ヴェンド十字軍」が組織され「異教徒征伐戦争」が行われたのは、前回書いたとおりです。 一方、地中海地方では何と、キリスト教国である東ローマ帝国を攻める「第4次十字軍」が組織され、首都・コンスタンティノープルを征服しました(13世紀初頭。1202-03)。十字架を掲げる国を「十字軍」が攻撃するのだから何とも奇妙な話なのですが、要するに「宗教戦争」とは無縁の、東ローマ帝国の国力の衰えにつけこんだ領土拡張・戦利品略奪戦争だったわけです。この結果、ヴェネチアはコンスタンティノープルに居留地を確保し、地中海と黒海をつなぐボスフォロス海峡を自由に通行できるようになりました。それまでヴェネチアはコンスタンティノープルでギリシャ商人が黒海沿岸から運んでくる交易…

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No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族

No.18「ブルーの世界」とNo.19「ベラスケスの怖い絵」で奴隷に触れましたが、奴隷について思い出した話があるのでそれを書きます。No.1, No.2 『「千と千尋の神隠し」と「クラバート」』で書いたクラバートと、奴隷の関係です。 クラバート少年は水車場において、絶対的権力者である親方のもと、粉挽き職人としての労働にあけくれます。親方は職人たちの "生殺与奪権" をもっており、クラバートは外面的には "奴隷" の状態です。しかしクラバートは職人としての技術を磨き、町の少女と心を通わせ、ついには親方と対決して水車場からの脱出を果たします。クラバート少年は決して奴隷ではありません。もちろん、小説の舞台となった18世紀初頭のドイツのラウジッツ地方に奴隷制度があったというわけでもありません。 しかし、クラバート少年が属する民族に着目すると、奴隷制度とある種の関係があるのです。クラバートはソルブ語を話すソルブ人です。小説『クラバート』の作者・プロイスラーは、ヴェンド語を話すヴェンド人と書いていますが、No.5「交響詩・モルダウ」で書いたようにヴェンドはドイツ語であって、自民族の言葉ではソルブです。そしてソルブは「スラヴ民族」の中の一民族です。そのスラヴは、今の国名で言うと、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ブルガリア、セルビア、クロアチア、モラヴィア、モンテネグロなどを中心に居住する大民族集団であり、各民族が話すそれぞれの言葉はスラヴ語と呼ばれる「大言語族」に属…

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No.6 - メアリー・ダイアー

No.3「ドイツ料理万歳」 で書いた「ウィーンの白アスパラ」のように、海外旅行の大きな楽しみは「日本ではできなかった経験や発見」をすることでしょう。それは No.3 のように食事であったり、また、遺跡などの観光、美術館・博物館、自然の景観などの体験です。しかし現代では日本に居ながらにして入手できる「海外情報」が大量にあるので「日本ではできない経験」も予想の範囲内や想定内であることが多いわけです。「思ってもみない経験をして、強く印象に残った、感動した」ということは少なくなったのではないでしょうか。 もちろん「想像以上だった」というのはあると思います。「ローマのコロッセオは想像以上に巨大な建造物だった」とか「カナディアンロッキーの雄大な眺めは想像以上にすばらしかった」とかのたぐいです。しかしこれは、ガイドブックやテレビ番組を見て想像していたのよりはレベルが上だったとか、予想以上の規模であったということであって、「全く想像だにしなかった発見、経験だった」というものではありません。スリにあったというようなネガティブな突発事態でさえ、現代では「想定範囲内のこと」となってしまった感があります。 その、比較的まれになった「想定範囲外の、意外な発見」を米国のボストンでしたことがあります。 ボストンとフリーダムトレイル ボストンはアメリカの「建国の地」であり、国内からの観光客はもとより世界各国からの観光客も多い街です。日本で言うと京都・奈良でしょうか。かつての米国大統領、ジョン・F・ケネ…

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