この「卵を料理する老婆」で思い出した作品があるので、今回はそのことを書きます。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵もベラスケスが10代の作品で、また、2020年に日本で開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されました。
新約聖書のマルタとマリア
まず絵の題についてです。「マルタとマリアの家のキリスト」は新約聖書に出てくる話で、聖書から引用すると次のようです。原文にあるルビは最小限に省略にしました。
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このエピソードには不可解なところがあります。以前の記事(No.41)でとりあげましたが、社会学者の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談本「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書 2011)には次のように出てきます。
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この箇所に違和感を持った人は多いらしく、大澤氏によると、中世の大神学者・エックハルトもそうで、強引な解釈をしているようです。普通のキリスト教徒が読んでも不可解に思えるのは間違いありません。
この大澤氏の問いかけに対して、橋爪氏は次のように答えています。これは橋爪氏の独自解釈というわけではなく、一般的なようです。
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これもちょっと強引な、ないしは一面的な解釈で、上の引用に続く部分を読むと、大澤氏も納得していないようです。なぜ強引かというと「イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できる」というのはマリアに対しても言えるからです。だとしたら、「いいほうをとった」マリアの方に、マルタに対する「気遣い」があってもよいはずです。一言、マルタに言葉をかけるとか ・・・・・・。両方の役割が必要だと理解していなかったという点では、マリアもマルタも同じなのです。
もちろん、「世俗的仕事」と「信仰」のどちらかを取れと二者択一で言われたなら「信仰」とすべきなのでしょう。イエスは「無くてはならぬものは多くはない。いや、ひとつだけである」と言っています。信仰に生きることの重要性です。ただ、二者択一でない "解決策" もあるはずで、たとえばマルタとマリアの2人で接待の準備をし、そのあと2人でイエスの言葉を聴くこともできる。別に現代人ではなくても、そう考えるはずです。
というわけで、違和感が残るというか、不可解さが拭えないのは当然で、従って、この話をもとに絵画を制作する場合もさまざまな立場がありうることが想定されます。
ここからが本題です。ベラスケスはどう図像化したのか。
ベラスケス:マルタとマリアの家のキリスト
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デイエゴ・ベラスケス(1599-1660) 「マルタとマリアの家のキリスト」(1618頃) |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー |
まずこの絵の特徴は「二重空間」の絵だということです。手前の "空間" には厨房で働く娘と老婆がいます。老婆は明らかに「卵を料理する老婆」と同じモデルです。娘は何となく泣きそうな感じで、老婆は後ろの "空間" を指さして娘に何かを言っています。
一方、後ろの "空間" にはキリストとマルタとマリアが描かれています。マリアは座ってキリストの言葉を聴いています。立っているのがマルタでしょうが、彼女がどういう態度を示しているのか、絵を見ただけでは判然としません。この後ろの "空間" については、
隣の別の部屋 | |
壁に掛けられた鏡 | |
絵 |
という3つの解釈があるそうです。ただ "鏡" という解釈には無理があると思われます。というのも、このような大きな鏡、しかも四角い平面鏡は、キリストの時代にも、この絵が描かれた17世紀にも稀少、ないしはまずないからです。平面鏡のためには平面ガラスが必要ですが、作るためには高度な技術が必要です。それは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」に描かれたスペイン宮殿の鏡も "小ぶりで丸みを帯びている" ことからも分かります。仮に四角い平面鏡があったとしても、国王の宮殿ならともかく、庶民の厨房に掛けるようなものではないでしょう。
隣の別の部屋という解釈はどうでしょうか。後ろの "空間" が別の部屋ということは、厨房に四角い "窓" があいていて、そこから向こうの部屋が見えるということになります。このような作りの厨房は考えにくいと思います。
ということで、後ろの "空間" は絵とするのが妥当でしょう。この絵が描かれた17世紀には、新約聖書の「マルタとマリア」の解釈として「世俗的な生」と「信仰の生」の両方が大切だと考えられていたようです。ということは、厨房を手伝わないマリアの態度に不平をもらしたマルタはよくない、厨房の仕事も大切だという "戒め" として絵が掛けてあると解釈できます。
娘はなんだか涙目で、不満そうな顔をしています。ニンニクを金属製器具ですりつぶしているようですが、老婆に厨房での仕事について何らかの厳しい注意、ないしは叱責ををされた。それで不満そうな涙目になった。それを見た老婆は「マルタとマリア」の絵を指さして、不満をもつのはよくない、調理は大切で立派な仕事だと諭している、そういう光景に見えます。
とは言うものの、後ろの "空間" が「鏡」か「別の部屋」か「絵」かは、画家にとってはどうでもよいのでしょう。つまり、後ろの "空間" はこの絵が「マルタとマリアの家のキリスト」を描いたと言うための "口実" であって、画家の本当の狙いは「厨房を描く」ことだったと考えられるのです。特に、前景にある「金属製の器具」「4匹の魚」「2つの卵」、その他、器具の前にあるニンニクなどです。これらのリアリズムに徹した描写が、この絵の最大のポイントと思えます。魚の部分図を以下に掲げます。
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絵の最大の狙いが静物の描写にあることは、この魚を描いた部分を見るだけでも一目瞭然だと思います。そして画家の第2の狙いをあげるとすると、庶民の労働を描くことでしょう。
さまざまな解釈を生む絵がありますが、絵そのものが画家の意図を雄弁に語っているケースがあります。この絵もそうだと思います。
余談ですが、このベラスケスの作品から、ある浮世絵を思い出しました。歌川国貞の「江戸百景の内 三廻」です(No.295「タンギー爺さんの画中画」の「補記」に画像を掲載)。題名だけを見ると風景画です。しかし、隅田川河畔の三廻神社が描かれているのは画面の左上の小さな四角(浮世絵の用語では "こま")の中だけで、本当の画題は中央に大きく描かれている女性、つまり美人画である、という浮世絵(いわゆる "こま絵")です。
この状況はベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」にそっくりです。世の東西に関わらず、似たような発想の絵があるものです。
フェルメール
ベラスケスを離れて、同じ新約聖書のシーンを描いた作品を振り返ってみます。その有名作品として、「卵を料理する老婆」と同じくスコットランド国立美術館が所蔵するフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」があります。この絵も 2018年のフェルメール展で展示されました(上野の森美術館)。
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ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 「マルタとマリアの家のキリスト」(1654/55) |
スコットランド国立美術館 |
フェルメールが20代前半の初期の作品です。フェルメールは画家としての初期に宗教画を描き、その後は宗教画を離れて風俗画(と風景画)を描くようになったことで知られています。
この絵はベラスケスと違って、聖書に登場する3者だけを描いています。左に描かれているのがマリアで、キリストの話に聞き入っています。中央に描かれているのはマルタで、キリストにパンを差し出しています。聖書通りだとマルタはここでキリストに不平を言い、キリストはマリアを指さしつつマルタを諭しているはずです。
しかしそうだとしても、マルタの不平の表現は抑制されています。それよりも、パンを差し出す、つまりキリストを接待している表現の方を強く感じる。また、マルタは三角形の安定した構図の中心に描かれています。光の当て方も含めて、彼女が構図の焦点のように感じられます。
この絵は、聖書のストーリーを忠実に再現したと説明されれば、そう見えないことはない。しかし聖書とは裏腹に、マリアはキリストの話に聴き入り、マルタは厨房で仕事をしたあと(ないしは仕事の途中で)キリストを接待するという "調和的な状況" が描かれているとも見える。つまり「活動的なマルタ」と「瞑想的なマリア」が人間の両面を表し、かつ、構図の焦点であるマルタの重要性 = 世俗的な労働の大切さが強調されているようです。
おそらくこれは画家の(ないしは当時のオランダ社会の)聖書解釈を反映しているのだと思います。
ウテワール
そのフェルメールの絵より約70年前に描かれた「マルタとマリア」を主題にした絵があります。同じオランダの画家、ウテワールの「台所のメイド」です。
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ヨアヒム・ウテワール(1566-1638) 「台所のメイド」(1620/25) |
ユトレヒト中央美術館(オランダ) |
この絵については、東京都美術館の学芸員、高城靖之氏が日本経済新聞に解説を書いていました。それを引用します。
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この絵で奥の部屋に描かれているマルタ、マリア、キリストは、まさに聖書の記述に従っています。というのも、マルタがマリアの態度に怒っているそぶりだからです。彼女は鍋を持ったまま、キリストとマリアのところに出てきて怒っている。
しかしベラスケスと同じで、この絵の主題はマルタとマリアの家のメイドを主人公にした前景の厨房です。そこには「静物」として、鳥、串、魚、肉、野菜、チーズ、パン、ワインの注がれたグラス、陶器、金属食器といった、質感の異なるさまざまなものがあり、高城氏が書いているように「質感や色彩を巧みに描き分けている画家の描写力」が見事です。その "静物の質感表現" こそ、この絵の第1のポイントでしょう。
そして第2のポイントは、鳥を串に刺しているメイド(高城氏の文章では女中)の表現です。腕と指を見ても分かるように、彼女はいかにもたくましく、働き者で、厨房での仕事を次々とこなし、家の食卓を一手に引き受けているような感じです。しかも調理に喜びをもって取り組んでいるように見える。労働は尊い、というメッセージ性を感じます。
以上の「マルタとマリア」の3作品に共通するのは、
労働は大切という考え(3作品) | |
聖書を "引き合いに" して厨房を描く。特に、静物の質感を油絵の技術を駆使して描き分ける(ウテワールとベラスケス) |
と言えるでしょう。一見して "不可解" な新約聖書のエピソードを画題にすることで、宗教画の変貌がわかる3作品だと思います。