この "Lady Jane" で連想するのが、下北沢にあるジャズ・バー「LADY JANE」です。このジャズ・バーは、今は亡き松田優作さんが通い詰めたことで知られ(優作さんがキープしたボトルがまだあるらしい)、現在も多くのミュージシャンや演劇・映画関係者に愛されている店です。俳優の桃井かおりさん、六角精児さん、写真家の荒木経惟(アラーキー)さんもこの店の常連だそうです。
この店の「LADY JANE」という屋号はローリング・ストーンズと関係があるのでしょうか。
店のオーナーは音楽プロデューサーの大木雄高さんという方ですが、大木さんの「音曲祝祭行」というブログにそのことが書いてあります(http://bigtory.jp/shukusai/shukusai12.html)。以下に引用します。原文の漢数字を算用数字に改めました。
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引用中に「3月に来日予定の」とありますが、この文章が書かれたのは1998年2月で「1998年3月に来日予定の」という意味です。ちなみに、今までにローリング・ストーンズが来日公演をしたのは、1990年、1995年、1998年、2003年、2006年、2014年ですが、ほとんどが3月の公演でした。引用の最後に「僕のただの邪鬼だった」とありますが、これは天邪鬼のことでしょう。さらに、引用した文章のあとには、次のような表現もあります。
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ロレンスとあるのは、イギリスの作家、D.H.ロレンスのことです。またダルシマーは珍しい楽器で、No.321 に書いたように、ブライアン・ジョーンズがダルシマーを演奏する貴重な映像が YouTube に公開されています。
また、大木さんの別のブログ「東京発 20:00」には次の記述もあります(http://bigtory.jp/tokyo/tokyo_zpn19.html)。2006年に書かれた文章です。
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「LADY JANE」としたのは「クロスボーダー作戦」だとあって、さきほどの引用の「ただの天邪鬼」とは違いますが、おそらく両方とも正しいのでしょう。
ともかく、これらの文章を読んで分かることは、「LADY JANE」のオーナーである大木雄高氏はローリング・ストーンズが好きであり、なかでも故ブライアン・ジョーンズに惹かれていて、また楽曲としての "Lady Jane" を高く評価している(精霊的!)ということです。だから、ジャズ・バーであるにもかかわらず「LADY JANE」にした。
ところで、「LADY JANE」は多くのミュージシャンや演劇・映画関係者に愛されていると書きましたが、中島みゆきさんも、かつてこの店を行きつけにしている一人でした。大木さんは別のブログに「1988年、開店以来の常連客の甲斐よしひろが中島みゆきを連れて来た。その数ヶ月後に彼女は1人で来た」との主旨を書いていました。なんでも、彼女は明け方まで飲んで帰ったそうで、かなりの酒豪のようです。
その中島みゆきさんが "ジャズ・バー LADY JANE" をそのままタイトルにした作品があります。2015年発売のアルバム『組曲』に収められた「LADY JANE」です。今回はこの作品の詩のことを書きます。
なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。
LADY LANE
「LADY JANE」は2015年のアルバム『組曲』に収められた曲で、その詩を引用すると次のとおりです。
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中島みゆき 「組曲」(2015) |
① 36時間 ② 愛と云わないラヴレター ③ ライカM4 ④ 氷中花(ひょうちゅうか)⑤ 霙の音(みぞれのおと)⑥ 空がある限り ⑦ もういちど雨が ⑧ Why & No ⑨ 休石(やすみいし) ⑩ LADY JANE |

非日常
以降、詩の内容を振り返りますが、まず冒頭の、
店を出るなら
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角
という言葉の流れに少々違和感を覚えます。「店を出るなら まだ暗いうちがおすすめです」は明瞭ですが、それと「日常な町角」とはどういう関係にあるのでしょうか。詩を読むだけでは明瞭ではありません。
CD のブックレットに、歌詞とともにその英訳が記されています。それを見ると上の部分の訳は、
If you are going to leave
I suggest you do so while it's still dark
Daily life would hit you otherwise
I suggest you do so while it's still dark
Daily life would hit you otherwise
となっています。つまり「店を出るなら まだ暗いうちがおすすめです。でないと日常(の町角)に遭遇しますよ」という意味なのですね(would という仮定法が使ってある)。つまり詩に言葉を補ったとしたら、
店を出るなら
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角(に出会う前に)
まだ暗いうちがおすすめです
日常な町角(に出会う前に)
となるでしょう。繰り返される日常の毎日、それとは違う "非日常" を求めてジャズ・バーで過ごす。ジャズ・バーを出たとたんに「日常の町角」に出会うより、"非日常の余韻" に浸りながら帰宅したほうがよい。そう理解できると思います。
町
"町" という言葉が何回か出てきます。ジャズ・バーがあるこの町は「乗り継ぎ人の町」と表現されています。"乗り継ぎ" は、文字通りにとると「交通機関の乗り継ぎ」です。ちょうど、実店舗の「LADY JANE」がある下北沢が小田急線と井の頭線の乗り継ぎ駅であるようにです。
しかしここは拡大解釈して「人生の乗り継ぎ」という風にとらえることができると思います。つまり、町に住み続ける、永住するというより、数年レベルの居住者が多い町というイメージです。その理由は、職場、大学、仕事の関係などさまざまでしょう。詩に「時流につれて客は変わる」とあるのも、そのイメージとマッチしています。
店
その町にあるジャズ・バー「LADY JANE」は、
色のあせた文字の看板 | |
座り心地が良いとは言いかねる 席はまるで船の底 | |
常に灯りは霞んでいる 煙草のるつぼ |
と表現されています。いかにも老舗のジャズ・バーという風情です。ここで出てくる「看板」「席」「灯り」は、おそらく店の創業以来そのままなのでしょう。
時の流れ
しかし、店の外観やしつらえは変わらなくても、変わるものがあります。それは、
時流につれて客は変わる
時流につれて町は変わる
時流につれて国は変わる
時流につれて町は変わる
時流につれて国は変わる
と表現されているように「客」「町」「国」で代表されるものです。「客・町・国」の何が変わるのかの具体的な言及はありません。ただ「乗り継ぎ人の町」にあるバーなので、客や町が変わるのは自然でしょう。
また「昔の映画より 明日の芝居のポスターが古びている」とあります。このジャズ・バーには映画や演劇のポスターがいろいろ貼ってあるようです。それも最新の(ないしは近日中に公開や初日の)ものだけでなく、昔の映画や演劇のポスターも(マスターのセレクションによって)貼ってある。当然そこには変遷があり、大袈裟に言うと、国の文化的状況の変化を反映している。
文化的状況というと、詩にある「言葉が通じない国」の "言葉" も変わります。この詩は「変わらないものと、変わるもの」が、基軸になっています。その中で、
この店はあるのかな
この店は残ってね
この店は残ってね
とあるように、店は変わらないで欲しいと願っている。そいういう詩です。
人間模様
その「変わらないものと変わるものの交差点」であるジャズ・バーのなかで、いくつかの人間模様が描かれます。まず、
愛を語り合うカップル
です。次に、それとは対照的な、
愛が冷えたカップル
です。ひょっとしたら同じカップルかもしれません。最初に見たときは「愛を語り合う」ようだったが、その次には「愛が冷えた」ようだったという、時間の経緯による変化なのかもしれません。さらに、
脛に傷ありそうなマスター
です。"脛に傷" なので、次のようなイメージが浮かびます。つまりこのマスターはジャズが好きだが、以前は全く別の仕事をしていた。そのときに人生における極めて辛い状況に陥った。それを契機にジャズ・バーのマスターに転身した。たとえばですが ・・・・・・。
このマスターは「いつも何かを怒ってる」とあるように、"気難し屋" のようです。何に怒っているのかは書いてありませんが、その直後の言葉に「昔の映画より 明日の芝居のポスターが古びている」とあります。これにひっかけて類推すると「最近の映画はつまらないし、演劇のクオリティーは低くなった」と怒っているのかもしません。そしてもう一つの人間模様としては、
ピアノを弾く客
です。「寝ていたかのよう客がふいとピアノ弾き始める、遠ざかるレコードを引き継いで」とあるので、フェイドアウトするレコードから引き継いだピアノ演奏です。アマチュアのジャズバンドをやっている人かも知れないし、ひょっとしたらプロのミュージシャンかも知れません。プロだとしたら、即興のピアノ演奏とも考えられるでしょう。
私
そして「私(=女性)」です。私は、
大好きな男がこの近くにいる。ただし、その男はこのジャス・バーを知らない。 | |
一人でジャズを聴きながら、お酒を飲む。 | |
お酒の量は「歩いて帰れる程度」で、かなり多め。 | |
深夜まで飲み、夜明け前のまだ暗いうちに(=町の日常が動き出す前に)店を出る(こともある)。 |
といった感じでしょうか。このジャズ・バーに通う大きな理由は「大好きな男がこの近くにいる」からなのでしょう。程度はさておき、女性の側からの "片思い" を匂わせる表現です。そうでないなら、2人でこの店に来ればよいはずです。詩に出てくるカップルのように ・・・・・・。
こういった "片思い" にまつわる詩は、70年代・80年代の中島さんの作品にいろいろあったと思います。しかしこの詩では、以前の作品のように "女性心理を突き詰める" というのではなく、「私」はあくまでこのジャズ・バーの人間模様の一つに過ぎません。そういった "軽さ" がこの詩の特徴でしょう。
実在の店を主題にするという手法
以上の内容は、「LADY JANE」という実在する店を舞台にし、その店の固有名詞を出した中で展開されます。こういった詩の作り方で真っ先に思い出すのが「店の名はライフ」です。この楽曲は1977年発表のアルバム「あ・り・が・と・う」に収められたもので、「LADY JANE」とは38年の時間差があることになります。
両曲とも実在する店をテーマにすることで人間模様(あるいは世相)を描いていますが、「LADY JANE」の詩は気負いがなく "肩の力が抜けている" 感じがします。曲調も中島さんの歌い方も軽快です。
特に「LADY JANE」は店の名前だけがタイトルであり、かつその名前が16回も繰り返されるところです。つまり主題は店であり、店が主人公の詩と言ってよいでしょう。その主人公である店が、人や町などの変化(や不変なもの)を語る。
"定点観測" という言葉があります。場所を固定して観測を続けていると、多様な人が行き交うことがわかると同時に、時間の流れと変化を感じることができる。「LADY JANE」は、変わらないものと変わるものの交差点である非日常空間を描いた詩、そう言えると思います。
サード・プレイス
「LADY JANE」の詩から、"サード・プレイス" という言葉に連想がいきました。サード・プレイス(第3の場所)とは、
自宅(ファースト・プレイス)や職場(セカンド・プレイス)とは隔離された、自分にとっての居心地の良い場所
の意味です。セカンド・プレイスは "自宅以外で1日の最も長い時間を過ごす場所" で、職場以外にも学校などが含まれます。ファースト・プレイスとセカンド・プレイスを「日常空間」とすると、サード・プレイスは「非日常空間」ということになるでしょう。
サード・プレイスでは、気ままに何かをしてもよいし、何もせずに無為の時間を過ごしてもよい。目的(たとえばジャズを聴く)があってそこに行ってもよいが、目的なしに行ってもよい。"そこに居る" こと自体が目的であっていいわけです。
また、そこに集まる人はすべてが平等です。常連客が雰囲気を支配しているような店はサード・プレイスにふさわしくない。
サード・プレイスがカフェ、バー(=夜のサード・プレイス)などの店だとしたら、その店は長期に存続し続けることが重要です。自分にとっての居心地のよさは、時間のフィルターで濾過されたものが自分に染み込むことで生まれるからです。ジャズ・バー「LADY JANE」がまさにそうで、1975年にオープンなので、中島さんが楽曲にするまでに40年間続いていることになります。
「LADY JANE」の詩から、日々の生活にとっての "サード・プレイス" の必要性や重要性を思いました。