ふつう "運動" というと、ジムに通ってエクササイズをしたり、筋トレをしたり、またランニングやサイクリング、ウォーキングなどの「意識的に体や筋肉を動かすこと」を思い浮かべます。しかしここで言う運動とは、徒歩通勤も、都会の営業担当の人が電車と徒歩で顧客回りをするのも運動です。もちろん農業や建設労働など、かなりの "運動" が必要な職業もあります。運動というより「身体活動のすべて」と言った方がよいと思います。
まず No.272 と No.286 の復習をしますと、No.272「ヒトは運動をするように進化した」は進化人類学の視点からの解説で、狩猟・採集の生活を送ってきたヒトは「運動に適合した体に進化してきた」という話でした。これは大型類人猿と比較するとよく分かります。要約すると次の通りです。
大型類人猿は日中の8~10時間を休憩とグルーミング、食事にあて、一晩に9~10時間の睡眠をとる。チンパンジーとボノボは1日に約3km歩くが、ゴリラとオランウータンの1日あたりの移動距離はもっと少ない。 | |
つまり、大型類人猿は習慣的に身体活動度が低く、人間の基準からすると「怠け者」である。 | |
それにもかかわらず大型類人猿は、たとえ飼育下であっても驚くほど健康である。糖尿病になることはまれで、加齢によって血圧が上がることもない。動脈硬化もなく、結果として心臓病にはならず、冠動脈閉塞による心臓発作も起こさない。肥満とは無縁で、飼育下であってもゴリラとオランウータンの平均体脂肪率は14~23%、チンパンジーに至っては10%未満で、オリンピック選手並みである。 |
人間がゴリラやオランウータン、チンパンジーなみの生活を続けたとしたら、いわゆる生活習慣病になります。それは、健康に悪いとされている生活スタイルの典型です。人間の仲間である霊長類ヒト科(ヒト、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)の中では、ヒトだけが特別なのです。
ヒトは200万年にわたる "狩猟採集" というライフ・スタイルで生き残り、高い身体活動レベル(現代人の基準では、歩行換算で1日1万歩程度。もちろん個人差はある)に適合するように進化しました。逆に言うと、身体活動によって健康が維持できる体になったわけです。具体的には、運動は健康維持に次のような好影響があることが分かってきました。
運動は神経新生と脳の成長を促す神経栄養分子の放出を引き起こす。また、記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐ。 | |
持久力を要する運動は、心血管疾患の重大なリスク因子である慢性炎症を抑える。また、ステロイドホルモンであるテストステロンとエストロゲン、プロゲステロンの安静時レベルを下げ、これが要因となって生殖器系のがんの発生率を下げる。 | |
運動は2型糖尿病の直接原因であるインスリン抵抗性を低下させることが知られており、ブドウ糖を脂肪に変換する代わりに筋グリコーゲンとして貯蔵するのを助ける。 | |
定期的な運動は免疫系の機能を改善して感染を防ぐ効果があり、この効果は年齢とともに高まる。 |
最初の項目に「記憶力を改善し、加齢による認知機能の低下を防ぐ」とありますが、この運動の脳に対する好影響を解説したのが No.286「運動が記憶力を改善する」でした。我々は「筋肉に負荷をかけると筋肉が増強される」のは当然と考えます。この類推で言うと「脳に負荷をかけると脳が増強される」はずです。私たちは、歩いたり走ったりするのは体が自動的に動いているように考えがちです。しかしそれが誤解です。むしろ、運動は身体的活動であるのと同じくらい認知的活動なのです。マウスによる実験で、運動によって脳の海馬(=記憶の司令塔)の神経細胞が増大することが分かりました。では、人間ではどうなのか。No.286 で紹介したのは次の実験例でした。
イリノイ大学での試験では、12ヶ月の有酸素運動が高齢者のBDNF(脳由来神経栄養因子)のレベルの上昇と海馬の拡大、記憶力の改善につながった。 | |
英国の中高年7000人以上を対象とした研究では、適度あるいは激しい身体活動に従事する時間が長い人の海馬が大きいことがわかった。運動が海馬とその認知機能にとって有益であることは明らかである。 |
BDNF(Brain-Derived Neurotropic Factor。脳由来神経栄養因子)は神経細胞の成長を促すタンパク質で、学習・記憶・判断などの高度な脳機能を担当する部位に作用します。神経栄養因子は何種類かありますが、その中では最も強力なものです。BDNFはは脳以外にも、網膜、腎臓、唾液腺、前立腺、歯の関連細胞などでも作られ、それらの機能の回復や向上を促すことも知られています。
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日経サイエンスにはこの他にも健康維持と運動の関係を示した論文があります。今回はそれを紹介します。2014年7月号に掲載された「運動で病気が防げるわけ」と題するものです(原題:Why Exercise Works Magic ─ Scientific American 誌)。著者は、チャーチ教授(ルイジアナ州立大学)とハーバード大学のマンソン教授とバサック研究員です。以下、主な内容を紹介します。
運動で病気が防げる
まずこの論文では冒頭に次のように書かれています。
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健康維持のために重要ことはいろいろあります。バランスがとれた食事がそうだし(特に野菜の摂取)、適度な睡眠をとる規則正しい生活もそうでしょう。精神面の健康ではストレスをため込まない工夫も重要です。しかし健康維持のために最重要なのが運動である ・・・・・・。本論文ではこの認識にたって、2010年代に新たに判明した運動の効能について書かれています。まず、運動の脳に対する影響ですが、本論文では次のように説明されています。
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運動が脳や記憶に与える影響の詳しい解説は、No.286「運動が記憶力を改善する」にある通りです。これは2011年頃から明らかになったようで、人間相手の研究には MRI の発展と普及が大いに貢献しているのでしょう。
以降は、運動が体に与える変化として「運動とコレステロール」「運動とインスリン」の部分を紹介します。
運動とコレステロール
コレステロールは細胞膜の構成物質であり、細胞内でのさまざまな化学反応にもかかわっていて、生命維持にとって必須の物質(脂質の一種)です。体内(主に肝臓)で作られたコレステロールは血液で輸送されますが、水に溶けにくいため、親水性であるリポタンパク質(Lipoprotein)との複合体を構成して血液中を運ばれます。リポタンパク質は、血液中ではコレステロールを供給する役割と、回収する役割の両方を担います。
リポタンパク質には、低密度の LDL(Low Density Lipoprotein)と、高密度の HDL(High Density Lipoprotein)があります。LDL は肝臓で生成されたコレステロールを体内に供給する役割を担い、HDL は逆にコレステロールを回収します。このうち、LDL は酸化されやすく、血管内に動脈硬化巣としてたまりやすい性質があります。このため「LDL・コレステロール複合体」を俗に「悪玉コレステロール」、「HDL・コレステロール複合体」を「善玉コレステロール」と呼んでいます。もちろん「悪玉」と言われる LDL も人体にとって必須の存在です。要は LDL と HDL が基準値内にバランス良く保たれていることが重要です。
日常的に運動をしていると、①血圧が下がる ②HDLコレステロールの血中濃度が上がる、③LDLコレステロールの血中濃度が下がる、という3つの作用によって心血管疾患のリスクが下がる、というのが従来からの理解でした。しかし近年になって重要なことが分かってきました。日経サイエンスから引用します。
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我々は健康診断の結果の数値が基準内にあるかを見て、安心したりドキッとしたりしますが、こと LDL コレステロールに関しては、単に数値で示された以上の健康ファクター(またはその逆の健康リスク)があることがわかります。
運動と血糖値
上に書いた、No.272「ヒトは運動をするように進化した」の要約の中に、
運動は2型糖尿病の直接原因であるインスリン抵抗性を低下させることが知られている。
との主旨がありました。「日経サイエンス」2014年7月号ではこの理由が詳しく説明されています。以下の通りです。
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血糖値は 70~140(mg/100cc)程度に保たれています(数値は論文のもの)。脳の主要なエネルギーはブドウ糖であるため、血糖値が70以下になると意識障害が始まり、さらには昏睡から死に至りかねません。また血糖値が多すぎると糖毒性によって血管や神経が損傷し、糖尿病になります(このあたりの詳細は No.226「血糖と糖質制限」参照)。なお、140以下というのは食事後2時間の値であり、空腹時では126以下です。
この血糖値をコントロールする上で、運動の役割が重要なのです。そのところを引用します。
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「運動は、血液中のブドウ糖(血糖)を筋肉にすみやかに取り込む訓練をしているようなもの」なのですね。従って体はインスリンに対する反応が良くなり(=インスリン抵抗性が低下し)、糖尿病のリスクが少なくなる。
健康に過ごすためには運動が重要ということは、ずいぶん昔から言われてきました。しかし2000年代以降、なぜ運動が必要なのか、その生理学上のメカニズムが次々と明らかにされてきました。「運動が健康維持に必須の理由」を人体の成り立ちに沿って理解することは、運動を続けてそれを習慣とする上での大きなモチベーションになると思います。