たとえば国立西洋美術館(上野)の常設展示室にある、ロヴィス・コリントの「樫の木」です。コリントはドイツ人で、この絵の原題は Der Eichbaum です。Eiche はドイツ語のオーク、Baum は木なので「オークの木」ということになります。しかし美術館が掲げる日本語タイトルは「樫の木」となっている。一見、些細なことのように思えますが、「樫の木」とするのはこの絵を鑑賞する上でマイナスになると思うのです。今回はそのことを順序だてて書いてみたいのですが、まず西欧における "オーク" がどいういう樹木か、そこから始めたいと思います。
オーク
ヨーロッパでオーク(英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche)と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、日本語に訳す場合は楢とすべきだと書きました。オークも楢もコナラ属の落葉樹です。コナラ属の常緑樹を日本では樫と言いますが、たとえばイタリアなどには常緑樹のオークがあり、英語では live oak、ないしは evergreen oak と言うそうです(Wikipedia による)。
つまり Oak はコナラ属の樹木全般を指すが、普通は落葉樹の楢(=ヨーロッパナラ)のことであり、特に常緑樹を示すときには live などの形容詞をつけるということなのです。
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オークの葉と実 |
(Wikipedia) |
フレーザーの『金枝篇』によると、古代からヨーロッパではオークを薪や住居の材料、食料(果実=どんぐり)として利用してきました。と同時に、オークには神が宿るとして崇拝されてきました。最高神であるゼウス(古代ギリシャ)やユピテル(古代ローマ)は、天空神であり雷神であり、かつオークの神でもあった。古代ゲルマンでも、オーク神 = 雷神でした。また、ケルト民族もケルト人もオークを崇拝していました。『金枝篇』には次のようにあります。
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上に引用にある "ゼウス" はギリシャ人の表現で、つまり "最高神" という意味です。引用したフレーザーの『金枝篇』の "金枝"(Golden bough)とはヤドリギのことです。ヤドリギは他の樹木に寄生する常緑樹で、伐採すると幹が金色に見えるようになることから "Golden bough" と言うそうです。そしてオークの木に生えるヤドリギは神聖なものとされた。なぜなら、冬にオークが葉を全部落としても常緑樹のヤドリギは緑のままであり、オークの神がそこに宿ったように見えるからです。こういうところからもオークが落葉樹であることが分かります。
No.220「メト・ライブの "ノルマ"」で書いたベッリーニのオペラ『ノルマ』は、まさに古代ローマ時代におけるガリアのケルト人の話でした。そこではガリアの人々がオークの巨木の前に集い、巫女であるノルマが伝える神のお告げを聴くのでした。
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メトロリタン・オペラによる「ノルマ」の舞台(2017)。オークの森の中に大木があり、巫女のノルマはそのオークの前で神のお告げを伝える。No.220で引用した画像を再掲。 |
『金枝篇』に「ケルト人は儀式には必ずオークの葉を用いた」とありますが、このオークの葉(オークリーフ)のデザインは、現代でも生活用品などのデザインに使われます。また、イギリス、フランス、イタリア、エストニアの国章(国を代表する紋章)にはオークの葉の絵が使われています。次の画像はイギリスの国章(イギリス王室の紋章)ですが、ライオン(=イングランド)と一角獣(=スコットランド)の間の上の方にオークの葉がデザインされています。この紋章では比較的目立ちにくいオークの葉が、あたかもイングランドとスコットランドの統合の象徴のように使われています。国を代表する紋章にオークの葉を使うということは、それだけオークという樹に象徴性があるということでしょう。
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イギリスの国章 |
(Wikipedia) |
日本のブナ科コナラ属の樹木
一方、日本ではコナラ属の落葉樹を総称して「楢」、常緑樹を総称して「樫」と呼んでいます。その代表的な樹種を葉の写真とともに掲げます。これ以外にも落葉樹ではアベマキやナラガシワ、常緑樹ではウバメガシ(備長炭の原料)などがあります。
落葉樹 (楢) | コナラ (小楢) | ![]() |
クヌギ (椚・橡) | ![]() | |
ミズナラ (水楢) | ![]() | |
カシワ (柏) | ![]() | |
常緑樹 (樫) | シラカシ (白樫) | ![]() |
アラカシ (粗樫) | ![]() | |
アカガシ (赤樫) | ![]() |
ブナ科コナラ属の主な樹木
こうして見ると、ヨーロッパナラ(オーク)は、葉の形だけからするとカシワに近い形です。
日本で "ドングリ" と呼ばれるもののほとんどは、コナラ属の落葉樹・常緑樹の果実です。そしてドングリは森の生物の重要な食料です。「今年はドングリが不作で熊が人里に出没する」といった話があるのは、その重要性の象徴でしょう。ということは、昔は人間にとっても保存が利く大切な食料だったはずです(栗も同様)。その状況は、森林に覆われていた古代のヨーロッパでも同じはずであり、そういうこともオークが神聖視される一因になったのでしょう。
オークを樫とする誤訳
オークが楢であることの説明を、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」から引用します。鳥飼氏は日本における同時通訳の草分け的存在でもあり、翻訳や通訳、異文化コミュニケーションに関する数々の著作があります。
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「樫」という木は固すぎて家具に加工するのは難しいとありますが、確かにその通りです。樫がよく使われるのは、たとえば道具類の柄で、金槌やスコップの柄を木で作る場合、その堅さを生かして樫が使われます。木偏に堅いという字の通りです。
鳥飼氏の文章に「オーク・ヴィレッジ」主宰者、稲本正氏のことが出てきました。稲本氏が家具製作を行う岐阜の工芸村に "オーク" という名前をつけた理由は、楢が家具の素材の本命だからです。稲本氏の本から引用します。
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家具以外で伝統的にオーク材が使われるのが、スコッチ・ウィスキーを熟成させるための樽です。サントリーでは樽に北米産のホワイト・オーク材を使っていますが、北海道産のミズナラ材も使っているそうです。それが原酒の多様性を生み出す一つの要因になっている(No.43「サントリー白州蒸留所」参照)。樽を何の木で作るかは、ウィスキー独特の味と香りを作り出す上で極めて重要なはずです。ウィスキー発祥の地であるスコットランドの伝統であるオーク材の樽の "代わりに" ミズナラ材を使うということは、「オーク = ナラ」を象徴していると思います。
蝶と蛾の混乱
以上のように一般的にオークは落葉性の木で、日本の楢に相当するのですが、ただヨーロッパではブナ科コナラ属の樹木全般もオークと呼ぶわけです。しかし日本では楢(落葉性)と樫(常緑性)という二つの名称に使い分けられます。
このように西欧で同一の名称で呼ばれるモノが、日本では2種類の名称で呼んで使い分けるという例が他にもあります。蝶と蛾です。そして蝶と蛾は、時として訳が混乱することがあります。
No.49 「蝶と蛾は別の昆虫か」で紹介したように、慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏は、ドイツ語では(そしてフランス語でも)蝶と蛾を区別しないことを述べていました。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は蛾も表す言葉であり、つまり鱗翅類全体を示すのです。フランス語の papillon(パピヨン)も同様です。
そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、文学作品の理解に関して思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木氏は注意していました。その例としてあげられていたのが、ゲーテの詩の翻訳です。鈴木氏の本から引用します。
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鈴木氏が引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。
確かに鈴木氏の言う通りで、蝶ではイメージが湧かないと言うか、なんだか変だという違和感が残ります。それは絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる夜の情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリスムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。
以上は文学作品の翻訳における「蝶と蛾」の話ですが、これと瓜二つの状況が "絵画の題名の訳における「樫と楢」" でも起きます。それが次です。
コリントの「樫の木」(国立西洋美術館)
ここからが、No.93「生物が主題の絵」の補記で引用したロヴィス・コリントの『樫の木』(国立西洋美術館)の話ですが、その前に比較対照のために、同じNo.93 で引用したクールベの作品を観てみます。
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ギュスターヴ・クールベ 「フラジェの樫の木」(1864) |
(クールベ美術館) |
この絵は以前は日本の美術館(八王子の村内美術館)が所蔵していましたが、現在はクールベの故郷であるフランスのオルナンにあるクールベ美術館(生家を改装した美術館)にあります。
この絵のフランス語の題は「Le Chêne de Flagey」で、Chêne は 英語の Oak に相当する語です。直訳すると「フラジェのオークの木」です。従って、日本語題名としてよく使われる「樫」は誤訳ということになります。但し、この絵の場合は "誤訳" が絵を鑑賞する上で、大きな妨げにはならないでしょう。
というのも、この絵は太い木の幹とそこからダイナミックに広がる枝に焦点が当たっているからです。この絵を観て強く感じるのは巨木の圧倒的な存在感です。おそらく樹齢は数百年でしょう。どっしりと単独で大地に屹立しています。人間の寿命より遙かに長い年月を自然の中で生き抜いてきた、その生命力に感じ入ります。画家の意図がどうであれ、少なくとも我々鑑賞者としてはそう感じる。
このクールベの絵と対比したいのが次の絵です。上野の国立西洋美術館は2019年にドイツの印象派を代表する画家、ロヴィス・コリント(1858-1925)の『樫の木』(1907)を購入しました。その絵は常設展示室に展示してあります。
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ロヴィス・コリント(1858-1925) 「樫の木」(1907) |
- Der Eichbaum - (国立西洋美術館) |
クールベの作品と違って、この絵は地表に屹立する幹を描いていません。画面いっぱいに大量に広がる緑の葉が印象的な絵です。
国立西洋美術館はこの絵の展示でドイツ語の原題を "Der Eichbaum" と表記しています。最初に書いたように、英語で Oak、フランス語で Chêne、ドイツ語で Eiche と呼ばれる木の和名は "ヨーロッパナラ" であり、落葉樹です。一般にオークと呼ばれている木です。
冬に葉を落として幹と枝だけになっていた木(= オーク = 楢)が、新緑の季節に芽吹き、やがて大木が一面の葉に覆われて、真冬には想像できないような姿になる。その生命の息吹きを強く感じる絵です。そのイメージでこの絵を鑑賞すべきだと思います。
我々は楢を街なかで見かけることはないのですが、落葉性の高木でよくあるのは、街路樹に使われるケヤキ(欅)やイチョウ(銀杏)です。青葉の季節になると、ケヤキやイチョウの並木が、数ヶ月前の冬や春先とは全く違った様相を呈する。その光景を想像してみてもいいと思います。
クールベの絵もコリントの絵も、そこから感じるのは樹の生命力ですが、生命力の意味が違います。クールベの絵は悠久の年月を生きるという意味の生命力ですが、コリントの絵は毎年春から青葉の季節に樹木が再生する、その生命力です。そして再生のイメージは落葉樹だからこそ成り立つのです。常緑樹ではそうはいかない。
国立西洋美術館がロヴィス・コリントの『Der Eichbaum』を『樫の木』としたのは、辞書にそうあるからでしょうが、芸術作品を所蔵している美術館の責任として「楢の木」ないしは「オークの木」とすべきでしょう。
補記 |
本文中にサントリーがウイスキーの熟成のために、伝統的なオーク材だけでなくミズナラ材の樽を使っていることを書きましたが、本場のスコッチ・ウイスキーのメーカもミズナラ材を使っていることを思い出しました。シーバス・リーガル「ミズナラ 12年」で、2013年10月に発売されました。現在では18年ものも発売されています。
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シーバス・リーガル 「ミズナラ 12年」 |
ボトルのラベルには5葉のミズナラの葉がデザインされている |
ボトルのラベルには次のように書かれています。
Selectively Finished in Mizunara Oak Casks
訳すと、「ミズナラ・オークの樽でフィニッシュした選りすぐりの一品」ぐらいでしょうか。フィニッシュとは、ブレンドしたあとのウイスキーを安定させるため樽に詰めて熟成させることを言います。後熟と言うこともあります。
もちろんシーバス・リーガルとしては日本マーケットの拡大のための商品なのでしょうが、基本的に言えることは、日本のミズナラはスコットランドのオークと "ほぼ同じ" だということです。でないと、ウイスキー発祥の地の伝統のオーク材の代わりにミズナラを使うことはできません。もちろん、材が違うと微妙な香りや味の違いが出てくるはずで、それを楽しむという商品だと思います。
あくまでウイスキーの熟成の観点ですが、この商品もまた「オーク = ナラ」を示しているのでした。