アフリカで狩猟採集生活をしているハッザ族のエネルギー消費量は欧米の都市生活者と同じ
というものでした。言うまでもなく狩猟採集生活をしているハッザ族の人たちの身体活動レベルは、欧米の都市生活者よりも遥かに高いわけです(No.221)。それなのにエネルギー消費量は(ほとんど)変わらない。我々は「体をよく動かしている人の方がエネルギー消費量が多い」と、何の疑いもなく考えるのですが、それは「運動に関する誤解」なのです。ここから得られる「なぜ痩せられないのか」という問いに対する答は、
肥満の原因は運動不足より過食であり、運動のダイエット効果は限定的
ということでした。もちろん、運動は健康のために非常に重要です。No.221 にも「運動が、循環器系から免疫系、脳機能までに良い影響を及ぼすことはよく知られている通り。足の筋肉を鍛えることは膝の機能を正常に保つことになるし、健康に年を重ねるにも運動が大切」と運動の効用(の例)を書いたのですが、これは我々共通の認識だと思います。しかしそこに「運動に関する第2の誤解」が潜んでいそうです。つまり、
ヒトは適切な食事(= 過食にならない、栄養バランスのとれた食事)をとれば普通の健康状態で過ごせるが、運動をすることによってより健康に過ごせる
と考えてしまいそうです。しかしこれも大きな誤解なのです。正しい認識は、
ヒトが正常な健康状態を保つためには運動が必須である。体を活発に動かさないと健康を維持できない
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なお、一般に「運動」というとジムに通ったり、テニスをしたり、ウォーキングやジョギングをしたりといった「スポーツやエクササイズで意識的に体を動かすこと」を思い浮かべますが、以下では「身体活動のすべて」を指します。従って、例えば「歩く」という行為は散歩・ウォーキングであれ、徒歩通勤であれ、営業マンの客先回りであれ、すべて「運動」です。「身体活動」の方がより正確な表現であり、そのように書くこともあります。
以下の引用における下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。
類人猿の生活
進化人類学の研究方法は、ハッザ族のように現代でも狩猟採集生活をやっている人々の調査と同時に、類人猿の研究です。ヒトは700万年とかそういった昔にチンパンジーとの共通の祖先から枝別れしたと推定されていて、類人猿の研究はヒトがヒトになった経緯を明かしてくれるだろうと考えられるからです。
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「類人猿を調べるのが最上の方法」という進化人類学のセオリーどおり、著者のポンツァーも20年前の博士課程のときにウガンダのキバレ国立公園でチンパンジーの野外調査を行いました。そのとき著者が強く印象づけられたことがあります。
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「チンパンジーは怠け者である」という結論に至った観察結果とはどういうものだったのでしょうか。著者の次のように書いています。
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チンパンジーだけではありません。ゴリラ、オランウータン、ボノボといった大型類人猿は、人間から見ると "怠惰な" 生活を送っています。著者は「子供に聞かせる寓話や、高校の麻薬撲滅プログラムで良くないとされる類の生活」と書いています。「高校の麻薬撲滅プログラム」というのはアメリカならではですが、寓話ならすぐに思いつきます。「アリとキリギリス」です。キリギリスのような生活を類人猿はしているというわけです(あくまで寓話としてのキリギリスです)。
実際に大型類人猿がどの程度の身体活動をしているのか、その具体的な数値が書かれています。
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歩行だけに着目して人間とチンパンジーの身体活動を比較したらどうなるしょうか。「チンパンジーは1日に約3km歩き、1.5kmのウォーキングに相当するカロリーを消費」とあります。人間は(普通は)木登りをしないので、人間に置き換えて「1日に3km+1.5km = 4.5km 歩く」と考えます。人間の歩幅を仮に75cmとすると、これは6000歩に相当します。あくまで比較のための仮の概算値です。
1日に6000歩の歩行というと、現代人によくある(運動不足の人の)身体活動レベルです。"チンパンジーは怠惰だ" と言っても、「チンンパンジーが生きるために雄々しく戦い、日々の糧を得るために懸命に頑張っている姿」を想像するからそう見えるのであって「1日に6000歩」程度の運動はしていることになります。
人間がチンパンジー的生活をしたら ・・・・・・
人間がチンパンジーと同じ程度の身体活動レベルの生活をしたとしたら、それはまずいことになります。
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著者は「世界的に身体活動度の低さは健康上のリスク要因として喫煙と同程度と考えられており、毎年500万人以上の命を奪ってる。」と書いています。
以上のことから考えると、類人猿は病気になってもおかしくはありません。先ほどの概算だと、最も身体活動度の高そうなチンパンジーでさえ1日に6000歩の歩行相当です。類人猿の身体活動レベルについて、著者は研究成果として、
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と書いています。しかしチンパンジーなどの大型類人猿は "運動不足" にもかかわらず、いわゆる生活習慣病とは無縁であり、健康的な毎日を送っています。動物園にいる類人猿でさえそうなのです。
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類人猿も人間も生物学的には霊長類ですが、霊長類の中で人間だけが特殊なのです。類人猿と比べると遙かに高い身体活動レベルを維持しないと健康を保てない。逆にいうと、人間は身体活動レベルの高い生活スタイルに適合するように進化してきたのです。そのことを著者は最新の化石研究から以降のように解説しています。
ヒトの進化史
絶滅種を含む人類の総称を "ホミニン" と言います。著者はホミニンの進化史を記述しているのですが、それを要約すると次のようです。
進化の系統樹において、約700~600万年前のころ、チンパンジーとボノボの枝からホミニンの枝が分かれた。 | |
初期ホミニンの化石は3種が発見されている。その研究によると、初期ホミニンは直立2足歩行ができた。ただし長い腕と手指、モノを握れる足をもっており、地上と樹上の両方の生活に適応していた。歯の特徴から果物などの植物性食物を食べ、現在の類人猿に近い暮らし方をしていたと推測できる。 | |
約400~200万年前のホミニンの化石はアウストラロピテクス属で占められている(5つの種が発見されている)。アウストラロピテクスも樹上生活に適した長い腕と手指をもっていた。ただし、足指はモノを握れない。また脚が長くなり、大股での二足歩行で効率的に地上を移動できた。歯の磨耗パターンから、初期ホミニンと同じく植物性食物を食べていたと推測できる。 | |
約200万年前になると、新しいホミニン(=ホモ属、ないしはヒト属)が登場した。260万年前のエチオピアとケニアの遺跡からは石器と、石器でつけられた窪みや傷がある動物の骨の化石が発見された。180万年前の遺跡になるとカットマーク(石器による切断痕)がついた動物の骨の化石が普通に見つかる。 またホモ属は180万年前までにアフリカを出てユーラシア大陸に広がり、カフカス山脈の山麓からインドネシアの熱帯雨林にまで達した。つまり、ほぼどこでも繁栄できる能力を持っていた。 |
この「狩猟を行うホモ属」の出現が人類の生き方を変えたと、著者は次のように書いています。
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動くことに適応してきた人類 |
「ホミニンは直立歩行を容易にする解剖学的構造を進化させたことで、より少ないカロリーでより広い範囲を移動できるようになり、新たな土地へ広がっていくことができた。その後、狩猟を行うようになると、獲物を見つけるためにさらに遠くまで移動する必要が生じ、ホミニンの活動レベルはさらに上昇した。私たちの生理機能はこのような肉体的に活発な生き方に適応しており、健康を維持するためには運動しなければならない」(日経サイエンスより引用)。 ホミニンはチンパンジーを除く現生人類と絶滅人類を指す言葉。図の左端のアルディピテクス属は初期ホミニンの代表的な属である。 |
(日経サイエンス 2019年4月号) |
狩猟採集がヒトをつくった
石器による狩猟(と肉食)がヒトの進化に果たした役割はどのようなものだったのでしょうか。著者は何点かに分けて解説しています。
 長距離移動の能力  |
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 協力  |
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現代の狩猟採集民が肉食と植物食を併用していることについては、著者のポンツァーがアフリカのハッザ族を調査した結果を、No.221「なぜ痩せられないのか」で紹介しました。
 知能の向上  |
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 身体活動量の増加  |
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 長距離走の能力  |
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ここで書かれているのはいわゆる「持久狩猟」で、現代でもアフリカの狩猟採集民がやっています。狩猟には必ず動物を追いかけるという行動が必要ですが、動物は人が追いかけるにはあまりに速い。そこで持久戦に持ち込みます。足跡を参考にしながら、狙った獲物をどこまでも追いかけていく。そうすると動物はいずれ弱ってしまい、そこを仕留める。
そのためには長距離を走れることが必要で、そのため能力の筆頭は汗をかくことです。ヒトは汗腺を発達させ、体毛を少なくし、気流で直接に体を冷やせるようになった。ヒトを含む哺乳類は深部体温が一定以上になると生命が危険にさらされます。"効率的なラジエーター" を備えたヒトは長距離走に有利です。
狩猟の対象となる動物は(一般には)汗をかく能力がありません。体毛もあります。つまり、追われる動物はいずれ木陰などに立ち止まって体温を下げる必要が出てきます。そこに人間が追ってくる。動物はまた逃げて、あるところまで行くと立ち止まる。するとまた人間が追いついてくる。これを繰り返すと動物はいずれ動けなくなります。人間はそこで動物を仕留める。持久狩猟に弓矢や槍といった "高度" な道具は不要です。毒矢のような技術革新も不要で、棍棒があればよいわけです。
著者が紹介しているブランブルとリーバーマンの "画期的な論文"(2004年)ですが、「日経サイエンス」の同じ号(2019年4月号)にその概要が紹介してありました。ヒトが走るために進化した証拠は20ほどあるそうですが、その一つが項靱帯です。
項靱帯とは、首筋にそって頭骨と脊椎をつないでいる靱帯で、これがないと走ったときに頭がグラグラ揺れてしまいます。馬や犬やウサギなど、速く走る動物には項靱帯があり、現世人類も持っています。しかしチンパンジーにはありません。「日経サイエンス」には次のように書かれています。
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一般には2足歩行こそが人類を進化させたものであり、「走り」は2足歩行の後に獲得した "おまけ" のようなものだと考えられていました。しかしリーバーマンらは「走り」を人類進化の重要な要素と位置付けたわけです。著者のポンツァーが「画期的」と書いているのはその意味でしょう。
ヒトは運動に適応した
ここからがやっと運動と生理機能の関係です。
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人間の生理機能が、狩猟採集に必要な活発な身体活動にどう適応したかについて、著者は何点かに分けて説明しています。
 脳  |
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 代謝  |
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 運動が全身に影響  |
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運動は自由選択ではない
著者のポンツァー准教授は、ヒトと運動の関係について端的に、
運動は自由選択ではなく、必須
と書いています。より健康に過ごすために運動するのではなく、普通の健康状態で過ごすためには運動が必要なのです。
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ハッザ族と同等レベルの身体活動をしている現代人の研究をした結果が書かれています。
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郵便局員にも多様な仕事があると思いますが、その中でも1日の歩数が1万5000歩の人(郵便配達担当)や、1日あたり7時間を立って過ごす人(郵便物の仕訳け担当でしょう)は健康だったわけです。注意すべきは「1日中動き続けている」という人の中に「1日あたり7時間を立って過ごす人」が入っていることです。「立って過ごす」というのも軽い運動=身体活動なのです。
ただし、我々はハッザ族やグラスゴーの郵便局員と同等の身体活動をする必要はないようです。「1日に1万歩以上歩かないと心血管疾患や代謝疾患のリスクが高まる」と前の方にあったように、その程度でよい。著者は次のように書いています。
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アメリカ人には想像できないと思いますが、「通勤電車に1時間立つ(往復で2時間立つ)」というのも、運動量を確保するために役立つのでしょう。
進化人類学の視点からの "運動"
以下はポンツァー准教授の解説を読んだ感想です。
これは、進化人類学の観点から運動の必要性を説くという「壮大な解説」でした。もちろん「運動が必要」ということを我々は知識として理解しています。健康診断の結果数値で生活習慣病のリスクがあると判断されると、医者は必ず「運動しなさい」と言います。しかし重々分かってはいるが、忙しいとか時間がないという理由で「身体活動レベル」が低い人も多いのではないでしょうか。
ポンツァー准教授の「進化人類学の視点からの解説」は説得力があると思いました。要するに、運動をするのがヒトであって、運動をしないとヒトでなくなる。シンプルに言うとそういうことでしょう。ヒトとは、ヒト属(ホモ属)であり、ホモ・サピエンスであり、つまり現生人類である我々人間です。
ここで No.221「なぜ痩せられないのか」を再度振り返ってみます。No.221 で書いた「運動による減量効果は限定的」ということについて、なぜそうなのかを進化人類学の視点から言うと、
運動したからといって痩せては困る |
からでしょう。つまり人類の進化の過程から考えると、
高い身体活動でどんどん痩せていくようだと、狩猟採集生活は成り立たない。 | |
運動しても大して痩せないからこそ、人類は狩猟採集で生き延びた。 |
と理解できると思いました。人類が狩猟採集を始めてから少なくとも200万年が経っています。農業は高々1万年程度の歴史しかありません。また、現代の農業を知っている人なら分かると思いますが、農業はそれなりの身体活動を伴います。機械化以前の農業ならなおさらです。身体活動量の少ない都市生活はこの100年程度のごく最近の話であり、200万年からすると無いに等しい短い期間です。
人間は200万年かけて運動に適応し、進化した。それが今の我々である。従って運動をしないと、いろいろとまずいことが起こる。そう理解できると思います。
人類学者は絶滅人類や類人猿の研究をします。それは「人とは何か」を探求するためだと言われます。では具体的に、探求の結果の答とはどういうものか。大学の研究者がアフリカに行き、絶滅人類の化石を発掘して、そこからどういう答が得られるのか。
ポンツァー准教授の解説には、絶滅人類や類人猿の研究から得られた「人とは何か」という問いに対する答の1つが書かれていて、その答は我々の日々の生活やライフスタイルと密接に関係しています。そのことが印象的でした。