この絵には線遠近法の消失点が2つあるが、違和感を感じない。人の眼は "遠近法の違反" については寛容 |
![]() | |||
フェルメールの『牛乳を注ぐ女』はアムステルダム国立美術館が所蔵する絵で、2007年に日本で公開され、また、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)でも展示されています。実物を見た人は多いと思います。
野田弘志氏(1936~)は現代日本の写実絵画を牽引してきた画家で、No.242「ホキ美術館」で『蒼天』という作品を紹介しました。野田先生の文章は写実画家としての立場からのものですが、『牛乳を注ぐ女』はまさに写実絵画の傑作なので、本質に切り込んだ解説になっています。なお、以下の引用での下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。
![]() | ||
ヨハネス・フェルメール(1632-1675) 「牛乳を注ぐ女」(1658頃) 45.5cm×41cm (アムステルダム国立美術館) |
空間の密度を描ききる
|
「イタリア人ならバカにしたに違いない」とありますが、フェルメール(1632-1675)が生きた時代のイタリア(=絵画の先進国)では、依然として神話やキリスト教をテーマとする絵画や貴族・富裕層の肖像が主流であり、『牛乳を注ぐ女』のような "日常の卑近な情景" が絵になるなどとは誰も考えなかったことを言っています。
うっかり描き忘れた?
この絵は、細部を見ていくと質感表現の的確さに驚くのですが、ただ一カ所、変なところがあります。
|
![]() | ||
右腕と壷の隙間の部分は「うっかり描き忘れた」ように見える。 |
確かに、右腕と壷の隙間は「うっかり描き忘れた」ように見えます。この部分は後ろの壁が見えるはずで、従って右腕と壷の周辺に描かれている壁と親和性のある色が置かれてしかるべきです。
しかし本当に "うっかり" なのでしょうか。この絵のあらゆる細部が精緻に描き込まれていることを考えると、はたして "うっかり" なのかと考えてしまいます。
もし意図的だとするとどうでしょうか。「他の部分を際立たせるために意図的に描き残した」とは考えにくいわけです。こういう話があったと思います。人間は完璧ではなく、完全なるものは神しかない、神の領域を侵さないために意図的に不備な細部を残した画家がいた ・・・・・・。本当のところは誰にも分からないでしょう。
すべてが絶対不可欠
この「手落ち」の以外の描写は素晴らしいものがあります。そのことを野田先生は次のように続けています。
|
当時のオランダの風俗画には寓意を込めた絵が多々あります。フェルメールもそうで、このブログで紹介した例で言うと、たとえば No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でとりあげた『天秤を持つ女』です。後ろの壁に「最後の審判」の画中画があり、女性が天秤を持っていて、しかも机の上には金貨や真珠があるという絵です。寓意がないと考える方がおかしいでしょう。『牛乳を注ぐ女』にも何らかの寓意・教訓があるのかも知れません。
だとしても、この絵には寓意・教訓という議論を突き抜けてしまうような、質感表現の確かさがあります。野田先生のように「寓意、教訓はない」「叙情、ロマンチシズム、懐旧もない」と言い切ってしまう方がスッキリするし、この絵を的確に表現していることになると思います。
奇妙な机
そこで、「視覚心理学が明かす名画の秘密」に指摘してあった "遠近法の違反" に関係した説明です。
|
![]() | ||
野田弘志「リアリズム絵画入門」より |
「視覚心理学が明かす名画の秘密」で三浦佳世氏は、この絵には消失点が2つあると説明していましたが、それは机が長方形であるという前提です。そうではなく野田先生のように、消失点は1つで(=女性の右手首の少し左上)机が現実にはあり得ない奇妙な形をしているという解釈も成り立つわけです。
野田先生によると、画家は人間を描く空間を作るために椅子やオブジェをわざわざ特注することがあるそうですが、それと似ています。フェルメールはこの絵の空間を創り出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に登場させた。その理由は何でしょうか。
|
ここの文章が少々わかりにくいところです。なぜ「実体として感じられる空間を描き出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に作った」のでしょうか。その理由は後の文章を読んでいくとわかります。まず、「通常の長方形の机で、その机の上に物が全部乗る」ようにするにはどうすればよいか。
|
![]() | ||
もう一つのありうる構図。この構図だと物は全部机の上に乗る。しかし見る人の視線は机でさえぎられてしまう。 |
|
上の引用の中で「アンカ」とカタカナで書かれていますが、"あんか(行火)" です。一人用でポータブルの足を暖める道具が描かれている。野田先生の指摘で気づくのですが、女性の後ろ数メートルの何もない室内空間を表現するのに、この "あんか" が非常に重要なのですね。"あんか" に "上空" があることを見る人が想像するからです。
壁を描ききる
次に野田先生がポイントとしてあげているのが、後ろに描かれた壁です。この壁はフェルメールの絵の中でも独特です。
|
![]() ![]() | ||
「牛乳を注ぐ女」でフェルメールが描いた壁。女性の左上の部分図(上)と、あんかの上の部分図(下)。 |
フェルメールが描いた35作品(カウントの方法は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)のうち、28点は家庭の部屋に人物が配置されている室内画です。そこにはとうぜん壁が描かれていますが、大半の作品の壁には絵やタペストリーが掛かっています。絵もタペストリーもない純粋な壁はごく少数で、その1枚が『牛乳を注ぐ女』です。ほかに "何もない壁" を描いた絵は、ベルリンにある『真珠の首飾りの女』(1662/1665)です。
![]() | ||
フェルメール 「真珠の首飾りの女」(1662/1665) ベルリン国立美術館 |
この絵を見ると、女性を引き立たせるために窓からの光で輝く壁を描いたと感じます。また、前景の机の上に濃紺のテーブルクロスがドカッと置いてある構図は『牛乳を注ぐ女』とは違います。この絵の構図は空間を構成することではなく、真珠の首飾りをもった女性を際立たせることに主眼があると感じられます。その意味で「壁」の役割は『牛乳を注ぐ女』とは違います。
![]() | |||
フェルメール 「窓辺で手紙を読む女」(1657頃) ドレスデン古典絵画館 |
特に『牛乳を注ぐ女』の壁は、野田先生の表現によると「壁が鋳型になって、こちら側にある室内空間が石から掘り起こしたかのような重量感と存在感を持つ」ようになっています。つまり、絵の空間構成のキーポイントとなっている壁なのです。
ちなみに『牛乳を注ぐ女』だけでなく『真珠の首飾りの女』も、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)で展示されています。「フェルメールの壁、2作品」を見比べて鑑賞するのもよいと思います。 |
全体空間の中で細部が共鳴し合う
野田先生の解説に戻ります。以上を総合して野田先生は『牛乳を注ぐ女』を次のようにまとめています。
|
野田先生の『牛乳を注ぐ女』の評論は「リアリズム絵画入門」の第5章です。この本は第1部が「制作」(第1章~第5章)で、第2部が「思索」(第6章~第9章)となっています。
![]() | |||
野田弘志 ホキ美術館のホームページより |
野田先生は『モナ・リザ』がリアリズム絵画の最高到達点だと明言されていて、それは多くの人が納得すると思います。そして『モナ・リザ』に次ぐ傑作が(ないしは傑作群の一つが)『牛乳を注ぐ女』なのでしょう。画家の関心事(の一つ)は、2次元のカンヴァスにいかにして3次元空間を創出するかということです。第5章のタイトルに「空間を描く」とあり、また5章の最初には "空間の密度を描ききった絵" とあります。この言葉が、野田先生の考えるこの絵の最大の特質だと思います。
まとめと感想
野田先生の『牛乳を注ぐ女』についての評論のポイントを要約すると、次のようになるでしょう。
◆ | 奇妙な形をした机は、その右側面のラインが、見る人の視線を奥へと誘導し、奥に向けて扇を広げたような空間感覚を作りだしている。 | ||
◆ | その視線の先に描かれているパンなどのモノ、女性の姿(特に頭部や黄色いセーム皮の服)のモデリングが素晴らしい。無用な細部を大胆に切り捨てることにより、存在感、物質感、量感、ディテールを確かなものにしている。 | ||
◆ | 光の繊細なトーンがきらめいている壁は、ずっしりと重く描かれていて、手前にある室内空間の広がりを創り出している。さらにはこの室内が外界や向こう隣の部屋にまでつながっていると感じさせる。 | ||
◆ | 全体として必要不可欠なものだけが配置され、必要不可欠な描写しか行われていない。しかし、あらゆる細部が共鳴し合っていて、それが生々しい迫真性を生み出している。 |
この要約の全体を一言でまとめると、上にも書いたように "空間の密度を描ききった絵" が適切だと思います。
このブログでは、今まで多数の絵の評論を紹介してきました。筆者は、中野京子、原田マハ、ローラ・カミングの各氏ですが、美術評論家、美術ジャーナリスト、小説家の立場からの発言です。それに対し、今回の野田弘志氏の文章は、プロの画家が傑作と評判の高い絵を評したものです。そこには画家ならではの、描き方・構図・空間構成・モデリング・調和などの視点から『牛乳を注ぐ女』の素晴らしさが語られています。そこが印象的でした。
そして『牛乳を注ぐ女』は、一見したところ "見たまま" をリアリズムの手法で描いているのだけれど、実は絵画でしか成し得えない表現に満ちているわけです。野田先生が最も言いたかったことはそこなのだと思いました。
ここからは野田先生の文章を離れて『牛乳を注ぐ女』のもう一つの素晴らしさについて書きます。この絵の色使いについてです。
この絵で目を引くのは、フェルメール・ブルーとも呼ばれる、鮮やかで強烈な青です。これには高価なラピスラズリが使われていることは有名です(No.18「ブルーの世界」参照)。さらに目に付くのは女性のセーム皮の服の黄色です。この青と黄という、補色関係の2つの色の対比がよく利いています。
このブログで過去に紹介した例だと、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『手紙を書く女』がそうでした。服は黄色で、テーブルクロスが青い。さらに、手紙を書く女性が着ている「白貂の毛皮がついた黄色(レモン色)のガウン」の女性像をフェルメールは6点描いていますが、ニューヨークのフリック・コレクションにある『婦人と召使い』も構図と配色がワシントンの絵とそっくりです。また、アムステルダム国立美術館の『恋文』という絵も、女性の傍の召使いのスカートが青い。
「登場人物が黄色の服を着ていて、その周辺に青色のアイテムが配置されている」という絵は他にもあります。有名な『真珠の耳飾りの少女』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)がまさにそうです。服が黄色でターバンが青い。さらに、小さな絵ですがルーブル美術館の『レースを編む女』もそうです。
ここまで、6つの作品をあげましたが、それらの中でも最も「青と黄の対比」が強烈に印象づけられるのは、明らかに『牛乳を注ぐ女』です。
こういった青系・黄系の色彩対比は近代の画家もよく使いました。最もうまいのがゴッホだと思いますが、20世紀の画家だとアンドリュー・ワイエスがその名手です(No.152「ワイエス・ブルー」)。そういった色の使い方とカンヴァスへの配置のしかたについても、『牛乳を注ぐ女』は先駆的に優れていると思います。
今までフェルメールの絵の実物を30点近く見ましたが、作品は「傑作」と「普通の絵」に分かれると思います。フェルメールのすべてが傑作というわけではありません。その「傑作の部類に確実に入るであろう絵」をあげるとすると、
① | デルフトの眺望(マウリッツハイス) | ||
② | デルフトの小道(アムステルダム) | ||
③ | 牛乳を注ぐ女(アムステルダム) | ||
④ | 真珠の耳飾りの少女(マウリッツハイス) | ||
⑤ | 真珠の首飾りの女(ベルリン) | ||
⑥ | 窓辺で手紙を読む女(ドレスデン) |
などでしょう。これはあくまで "厳選" したもので、他にも傑作はあります。
① ~ ⑥ に共通するのは「寓意や教訓とは無縁」ということです。① ② は風景画なので寓意はないはずです。有名な ④ は(一応のところ)肖像画です。本文で引用した ⑤ ⑥ は、寓意・教訓があるのかもしれないが(ありそうだが)、それを感じさせないリアリズムがあります。モノや人物、空間、風景の実在感を描くことに徹した絵にこそフェルメールの価値があり、誰もマネできない画家の才能が発揮されている ・・・・・・。野田先生の文章を読んで、そういう風に思いました。
 補記  |
本文中に、フェルメールの "何もない壁" の作例としてドレスデンにある『窓辺で手紙を読む女』をとりあげましたが、この作品については「(壁が) カーテンや開いた窓にさえぎられていて "壁を描いた" という感じはしません」と書きました。確かに、この作品の壁の描き方は『牛乳を注ぐ女』『真珠の首飾りの女』に比べて中途半端で、"何もない壁" にしては少々違和感があります。
実は、この壁にはもともと画中画が描かれていて、その復元作業が進行中だというのです。その報道がありました。
|

ポイントは「最近の分析で壁の上塗りはフェルメールの死後に何者かが行ったものであることが分かり」というところですね。だから取り除く作業が行われているわけです。
実は『真珠の首飾りの女』も、もともとは壁に地図が描かれていたが白く塗りつぶされた。しかしこれはフェルメール自身がやったとされています。これはこれで女性を浮かびあがせる効果を演出しています。
というようなことからすると、初めから壁の重量感を描くのが目的(の一つ)だったような『牛乳を注ぐ女』は、やはり貴重な作品だと言えるでしょう。
(2019.5.8)