赤ちゃんの言語習得
「あー、うー」としか言わなかった幼児が言葉を習得し、「まんま」とか言い出す。そして文らしきものをしゃべり出す・・・・・・。この過程は、よくよく考えてみると驚くべきことです。誰かが系統的に言葉を教え込んだのではないにもかかわらず、大人とのコミュニケーションが次第に可能になっていく。2歳とか3歳の幼児がいる親は、今まさにその現場に立ち会っているわけです。子育てに忙殺されて驚くどころではないと思いますが、第三者の目で客観的に眺めてみると、言葉の習得というのは驚くべき脳の発達です。
では、その赤ちゃんの言語能力はどういう風に発達するのか。日経サイエンスの記事『赤ちゃんの超言語力』には、まず次のように書いてあります。
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日経サイエンス 2016年3月号 |
引用に出てくる「音素」という言葉ですが、これはおおざっぱには「子音」や「母音」のことです。ただし「音素」という場合、音声学的な(物理的な)音の分類ではありません。その言語の話者にとって「同じ音」だと認識されるものは同じ音素であり「違う音だ」と認識されるものは違う音素です。たとえば日本語の「シ」の発音の子音ですが、日本語話者からみて似たような英語の子音として、she, silk, think の最初の音があります。英語話者にとってこの3つの子音は違う音素です。これを日本語話者が日本語風に「シー」「シルク」「シンク」と発音したとしたら(また聞いたとしたら)、それは同じ音素と認識したことになります。音素は音声の問題ではなく、脳がどういう風に認識するかの問題です。その音素の違いが言葉の意味の違いにつながります。
この視点からみると、世界中の言語には、合計約800の音素がある。上の引用はそう言っています。
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音素の数は言語によって違います。英語の音素は45程度で、日本語は25程度です。クール教授が「約40種類の音素」と書いているのは、英語を念頭に置いているか、もしくはどんな言語でも40程度の音素を識別できれば十分という意味かと思います。
音の微妙な違いの判別が必要、というのはまさにそうです。日本語の「あ・い・う・え・お」の母音は違う母音(=音素)です。しかし実際の会話では、これらは必ずしも明瞭に言い分けられているのではありません。「あ」「え」「お」などは、純粋な音としてはその区別がずいぶん曖昧に発音されることがある。それでも区別できるのは、大人からすると当然です。「えるく」「おるく」に近い音を発音しても、会話の中では「あるく・歩く」に聞こえる。日本語にはその単語しかないからです。また「あり・蟻」を「えり・襟」「おり・檻」に近く発音しても、全く違うものを指しているので文脈から判断できます。その他、アクセントとかイントネーションとか、区別の手段はいろいろあります。
しかし幼児はそもそも単語や文を知りません。どうやって音素を区別するのでしょうか。また単語はどうやって認識するのでしょうか。さらに、その能力はいつ頃から生まれてくるのでしょうか。
「敏感期」の脳は "統計的学習" をする
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「言葉という魔法の最初の基礎レッスン」は、幼児の月齢6ヶ月から1歳程度の間に行われるというのポイントです。その "レッスン" において、幼児はどうやって言葉(音素や単語)を学ぶのか。それはまず「脳における統計的学習」です。
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特定の音が聞こえる頻度が幼児の脳に影響を及ぼすのです。このことが、英語の r と l の音と、それに相当する日本語の R (ローマ字表記で r と書かれる ラ・リ・ル・レ・ロ の子音。英語と区別するために大文字にした)を例に説明してあります。英語の r と l はもちろん違う音素であり、right と light のように、その違いで意味がガラリと変わります。一方、日本語の R は、英語を基準に考えると r と l の中間的な音です。ラーメンなどはむしろ l のように聞こえるといいます。このような音の認識は、8ヶ月齢から10ヶ月齢で確立されるようです。
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この引用における「日本人の赤ちゃん」とは、もちろん「日本語環境で育った日本人の赤ちゃん」ということです。
クール教授は、成長してから第2言語を学ぶ難しさがここにあるといいます。第2言語が学べないということではありません。しかし「脳の音素の認識回路」に限っていうと、それは幼児期に決まると言っているのです。
米国人、日本人、台湾人の幼児を調査した結果が載っています。米国人にとって ra と la の違いを識別するのは容易ですが、日本人にとっては難しい。一方、台湾人にとって qi と xi の違いを識別するのは容易だが、米国人にとっては難しい。このことを赤ちゃんで検証した研究です。一番のポイントは、6ヶ月~8ヶ月齢の赤ちゃんは、その赤ちゃんがどういう言語環境で育っているかにかかわらず、ra と la、qi と xi を聞き分ける能力が同じだということです。それが数ヶ月で大きく変化します。
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米国人、日本人、台湾人の赤ちゃんの音素識別能力を計測した研究。生後6ヶ月齢の赤ちゃんは似たような能力だが、10ヶ月齢になると育てられている環境で差が出てくる。たとえば「ra と la の違いを識別する」能力は、米国人の赤ちゃんと日本人の赤ちゃんでは明白な差が現れる。 (日経サイエンス 2016年3月号 より) |
脳の統計的学習で音素が認識できたとして、次には単語を認識する必要があります。書かれた言葉と違って、耳で聞く言葉は「単語の区切り」がありません。赤ちゃんはどうやって単語を認識するのでしょうか。
クール教授によると、これも「脳の統計的学習」だと言います。Aという "音節"(=言葉として発音される最小限の音素の集まり。音節の組み合わせで単語ができる)のあとにBという音節が聞こえる頻度が高ければ、A+Bを単語だと認識する。コンピュータによる音声合成で、ランダムに音節を組み合わせて作った無意味な単語を幼児に聞かせた実験が示されています。特定の組み合わせの頻度だけを高めて聞かせると(それも無意味な単語ですが)、その "単語" に幼児は反応するようになる。つまり "音節の組み合わせが聞こえる頻度" という統計的学習で単語の認識がされるのです。
幼児は「人との交流」で言葉を覚える
さらにクール教授が強調していることがあります。幼児の脳におけるは統計的学習は、人との交流で起動されるという事実です。
ある実験が示されています。シアトルに住む米国人の9ヶ月齢の赤ちゃんに、標準中国語を聞かせるという実験です。赤ちゃんは4つのグループに分けれられます。
◆ | 第1グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけます。 | ||
◆ | 第2グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかけるビデオを見せます。 | ||
◆ | 第3グループ 中国語のネイティヴ・スピーカーが話しかける録音テープを聞かせます。 | ||
◆ | 第4グループ 米国人が英語で話しかけます。これは比較対照のためです。 |
このセッションは1ヶ月に12回に行われました。そして10ヶ月齢になったときに検査すると、中国語の音素が聞き取れたのは第1グループだけでした。これは赤ちゃんの言語の習得には人との交流が決定的に重要なことを示しています。
親語(ペアレンティーズ)の重要性
クール教授はさらに「親語 = ペアレンティーズ」の重要性を指摘しています。「親語」とは、親が子どもに話しかけるときにしか使わない特有の言葉や発声方法です。母親語(マザーリーズ)とか、幼児語というのも同じことです。
日本語でいうと、たとえば食事(ないしは "ごはん")のことを "まんま" というたぐいです。また特別な幼児語を使わないまでも、たとえば赤ちゃんが「彩」という名前だったとすると「あーやーちゃーん」と、かなりの抑揚をつけて呼びかけたりすることを言います。
実は親語は、それを聞く赤ちゃんが音素を認識しやすく、また単語を認識しやすい言葉使いなのです。高い音は幼児の注意を引きつけ、また音と音との違いが強調された言葉になっている。我々は暗黙に「赤ちゃんなのだから特有の言葉を使い、特有の発音方法をするのは当たり前」と思ってしまうのだけれど、親語には赤ちゃんの言語習得にとって重要な意味があるのです。クール教授の解説記事には、親語で話かけられた赤ちゃんは、親語で話しかけられなかった赤ちゃんの2倍の単語を覚えたという話がでてきます。
言葉の意味の習得には、親とのコミュニケーションがさらに重要です。たとえば、幼児は親の視線に敏感です。親が何気なくおもちゃに視線を向けて「おもちゃ」と発話する。すると幼児はそれを敏感に察知する・・・・・・。このような行為の繰り返しが、単語の意味の習得に役立っているのです。
赤ちゃんの "言語脳"
以上のクール教授の解説をまとめると
① | 赤ちゃんは、親がそれとは全く気づかない時期から言葉の習得を始めている(生後6ヶ月~1年)。 | ||
② | 赤ちゃんが言葉を習得するには "親の語りかけ" が決定的に重要であり、中でも "親語" は大切な役割をはたしている。 |
ということだと思います。ほとんどの親は ② を無意識にせよ、やっているでしょう。しかし、それがどういう効果をもつのか、自覚している親は少ないのではないでしょうか。しかし ① のようなことを知ると、育児における親の行為の重要性が理解できる、この記事を読んでそう思いました。
もう一つ思ったのは、AI(人工知能)との関係です。赤ちゃんが言葉の音(音素)を認識し、また単語を認識するのは、赤ちゃんの脳にインプットされた「音素」や「音の組み合わせ」を脳が自律的に "分類" し、頻度の高いものを認識していくのですね。これはAI技術でいう「教師なし機械学習」と同じです。一方、単語の意味については、親との交流における親の「意識的、ないしは無意識の教唆」で習得していく。これは「教師あり学習」と言えるでしょう。
現代におけるAIの飛躍的な発展は、人間の脳のメカニズムの研究成果を取り入れたことが大きいわけです。そのとき「人間がどうやって考えているのか」も大事だが、「人間はどうやって考えられるようになっていくのか」という研究はもっと大事でしょう。AI技術の発展にとって、赤ちゃんが言語を初めて習得するやりかたを含む「赤ちゃんの脳の研究」が重要だと感じました。