『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』というと、オルセー美術館にあるルノワールの絵(1876)年が大変に有名ですが、24年後にピカソも全く同じ場所を描きました。
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パブロ・ピカソ 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1900) (ソロモン・R・グッゲンハイム美術館) |
この絵はルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と全く同じ場所で、同じようにカップルがダンスに興じる光景を描いたものです。しかし、ルノワールの絵は昼、ピカソの絵は夜です。そのためか、何となく "ムンク作品" を思わせる描き方になっている。この時期、ピカソは似たような画風の作品を何枚か描いています。パリに出たピカソがまず作り上げた「画風」と言えるでしょう。中野さんの解説を続けます。
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ルノワールとピカソの差は、昼と夜の差というだけでなく、24年の時を経てムーラン・ド・ラ・ギャレットというダンスホールが "変質した" ことがあると言います。つまり、ルノワールの時代以前は比較的安価に庶民にダンスという娯楽を提供する場だった。しかしルノワールの時代以降、店はプロのダンサーによるフレンチ・カンカンを提供するようになり、従って料金も上がった。そうなると金持ちの "観客" が増え、金持ちが増えると客を装った娼婦も増えた・・・・・・。ルノワールの絵は、ムーラン・ド・ラ・ギャレットが "健全" だった時代の最後の輝きなのです。
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現代なら、LGBT(の "L")と言うのでしょうか。その様子をあからさまに描いた絵というのは、そう多くはないのではと思います。ロートレックが描いた "ベッドの2人の女性の絵" がありますが、それはあくまで娼館という特別の場所でのシチュエーションです(浮世絵の類似の絵も遊郭です)。そいう意味でこのピカソの絵は貴重な作品だと思います。
No.46「ピカソは天才か」でも紹介したように、中野さんはピカソの "天才のあかし" として、この絵をあげています。上の引用の最後で、コクトーの小説の題名、「恐るべき子供たち = アンファン・テリブル」を引用しているのがその意味ですね。確かにそうだと思います。「ラファエロのように描けた」少年画家が、ラファエロとは全く違う絵画手法で、誰も描かなかったテーマを、パリに出てきてからわずか3ヶ月で描いてしまったのだから、天賦の才があったとでも言うしかないでしょう。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』についてはここまでで、別の絵画作品をとりあげます。この文章は No.46「ピカソは天才か」の "補足" ですが、No.46 にはピカソの "青の時代" の絵を掲げなかったので、以下に追記します。
青の時代(1901-1904頃)
ピカソのいわゆる「青の時代」の絵は日本にも数点あります(たとえばポーラ美術館の『海辺の母子像』1902)。ここでは、ロンドンにある絵を掲げておきます。
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パブロ・ピカソ 「シュミーズの少女」(1903) (テート・ギャラリー) |
思うのですが、画家は「自分独自のスタイル」をいかに確立するかが "命" と言えるでしょう。"職人としての画家" の時代はともかく、画家が芸術家として認知された以降、ないしは自らを芸術家と意識した以降は特にそうだと思います。初めての絵を見て「あっ! XXXX の絵だ」(XXXX は画家の名前)と分かる画家は実に多い。それは日本の画家でも西洋の画家でも同じです。画家の名前がすぐに出てこなくても、見たことのある画家の絵だと直感できる。
"スタイル"とは、絵の「描き方・画風」か、絵にする「モチーフ」か、あるいはその両方です。ここに独自性を出せるかどうか、先人にはない自分だけの個性を表現できるかどうかに画家の生命がかかっている。有名な画家は数多いし、高値で取引される絵も多いわけですが、人々が何を評価しているかというと、その根幹のところは「スタイル」だと思います。高名な画家の絵で、独自のスタイルを確立する前の若い頃の作品に高値がついたりもしますが、それはいわば美術史的価値・伝記的価値に値がついたのであって、絵画の本質とは離れています。
もちろん "スタイル" は、一つでなくてもいいわけです。一人の画家に複数の "スタイル" があってもいい。その "スタイル" を模索し、確立することに画家は命を削るわけです。作品を貫く "スタイル" があまり感じられないけど高名な画家というのは、あまり思いつきません。速水御舟はそうかも知れませんが、ただ、御舟の場合は模索の途中で夭折したためと考えられます。
ピカソの話に戻ります。ピカソは少年時代から「ラファエロのように描けた」と豪語していたのは有名な逸話です。しかし「ラファエロのように描く」だけでは芸術家とは言えません。それは早熟だった、と言っているに過ぎない。「ラファエロ」というのはイコール、西洋絵画のお手本という意味です。
しかし『シュミーズの少女』が描かれた時代の絵 = 青の時代の絵は違います。少年時代に「ラファエロのように描いた」画家が20歳代前半で描いた青の時代の絵には、他の画家にはない独特の "スタイル" があります。
・ | プルシアン・ブルーの深い青を多用した色使い | ||
・ | 独特の描線で描かれた人物 | ||
・ | "憂い" や "悲しみ"、"不安"、"孤独" などを感じるが、それを突き抜けた人間の "純粋さ" や、さらには "崇高さ" も感じる表現 |
などです。これは『シュミーズの少女』という絵だけでなく「青の時代」に共通しています。明らかに独自の "スタイル" が出来上がっている。このブログで「青の時代」の絵の画像を唯一掲載した、バーンズ・コレクションの『苦行者』という絵にも共通します(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wall にある)。
ピカソは「青の時代」の作品について、エル・グレコの人物描写の影響を受けたと語ったそうです。しかしだからといってピカソの独創性にとってのマイナス・ポイントにはなりません。すべての芸術は過去の先人の作品の蓄積を踏まえた上で、芸術家としての独自性を発揮するものだからです。ピカソがスペイン画壇の偉大な先輩の影響を受けて「青の時代」の作品群を創り出したとしたら、それは十分に納得できることです。
そしてここからが本題で、題名の「ピカソは天才か」というテーマに関することです。ピカソは「青の時代」に確立した "スタイル" を全く捨て去ってしまったのですね。No.46「ピカソは天才か」にも書きましたが、「青の時代」の絵を絶賛する人は多いわけです。ピカソ作品に否定的な作家の開高健氏でさえ「青の時代」の作品を大いに評価していたことを No.46 に書きました。もし仮に「青の時代」のスタイルをもっと続けていたなら、ないしは続けないまでも、折りにふれて「青の時代」のスタイルで作品を描いていたなら、もっとたくさんの傑作絵画が生まれたと思うのは私だけではないと思います。それをピカソは捨て去った。
「青の時代」の絵(たとえば『シュミーズの少女』)を見ていると、なんとなく画家が次のように呟いているように思えるのです。
画家の皆さんは独自のスタイルを作り出そうと躍起になっていらっしゃるようですが、別に難しいことではありませんよ。たとえばこの絵はどうです? こういう風に少女を(人間を)描いた画家は、かつて無かったでしょう。私は最近このようなスタイルで描いていますが、もうすぐ別の画風に転じるつもりです ── ピカソ |
全くの考え過ぎでしょう。ピカソは友人の自殺に衝撃を受けて「青の時代」に入ったと、美術史では解説されています。ピカソも苦しんだ末に「青の時代」の傑作群を作り出したのだと思います。全くの考え過ぎだとは思いますが、しかしそういう風に想像したくなる。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』と『シュミーズの少女』を比べると画風が全く違いますが、その時間間隔は2~3年です。ピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』の評論で中野京子さんは、
それにしてもピカソは19歳で、しかもちょちょいのちょいというように描きあげたのだった。アンファン・テリブル。 |
と書いていますが、それに習って言うと、
ピカソは20歳代前半で、ちょちょいのちょいというように一連の "青い絵" を描きあげ、しかもそれを捨てたのだった。 |
と想像してしまうのですね。そして、ここにこそ天才画家の天才たるゆえんがあると思います。創造し、しかも捨て去ったところに。
 補記  |
ピカソは画家として生涯、変化し続けた人ですが、葛飾北斎との類似性が指摘されています。二人の美術の専門家、美術評論家の故・瀬木 慎一氏と、浦上蒼穹堂(東洋古美術専門店)の主人・浦上 満氏の発言を引用しておきます。瀬木氏は生前のピカソ本人に面会した人です。また浦上氏は世界一の『北斎漫画』コレクターです。
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ちなみに、番組タイトルの「ピカソを捨てた花の女」とは、画家のフランソワーズ・ジローのことです。
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「変化の画家」というのは確かにそうです。北斎もピカソもさまざまなスタイルで描いていて、画風というようなものを完全に超越しています。
浦上氏が言うように、ピカソは浮世絵の春画を収集していました。2009-10年、バルセロナのピカソ美術館で「秘められたイメージ:ピカソと日本のエロティック版画」という企画展が開かれ、ピカソと春画の関係に焦点を当てた展示がされました(バルセロナ・ピカソ美術館の公式ホームページ参照)。「彼のキュビズムは春画からきているという説もある」というのは、この展示会でも示された仮説です(春画における人体の部分的なデフォルメのことを言っている)。
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北斎とピカソががもう一つ似ているのは、ものすごい多作だということです。北斎の作品数は "数え切れない" というのが正解で、ざっくり言うと "数万点" でしょう。ピカソもそれぐらいはある。「変化」と「多作」の画家、描き続けることに人生をかけた画家が、北斎とピカソです。
マティスはフォービズム仲間の "後輩" であるアルベール・マルケを「我らが北斎」と呼びました。マルケはフォービズムにしては穏やかな色使いで風景を中心に描いた画家で、マティスの言は「富嶽三十六景」などにみる北斎の風景画家としての側面を言っているのか、あるいはマルケが卓越したデッサン力の持ち主でそれを北斎になぞらえたのしょう。しかし北斎の画業のが極めて多岐に渡ることを考えると、「ピカソ=ヨーロッパの画狂老人」の方が北斎の本質をついています。
とにかく、ピカソが北斎を強く意識していたことは確かなようです。
(2017.1.14)