福島県立美術館
前回の No.150「クリスティーナの世界」で、福島県立美術館が所蔵するアンドリュー・ワイエスの「松ぼっくり男爵」にふれました。今回はこの絵についてです。
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ポスターの絵は「Faraway」(遥か彼方に。1952)。モデルは息子のジェイムズ。 |
しかし福島県立美術館で出会ったワイエス、特に「松ぼっくり男爵」は心に残るものでした。それは「思いがけず」ということに加えて「不思議な絵だな」という感触を持ったからだと思います。もちろん、福島で見たときには、この絵が描かれた経緯を知りませんでした。以下の「描かれた経緯」は全てあとで知ったものです。
なお以下の説明は、
◆ | テレビ東京「美の巨人たち」で放映された「松ぼっくり男爵」(2013.6.22) | ||
◆ | 福島県立美術館の学芸員・荒木康子氏の解説 = 「アンドリュー・ワイエス 創造への道程展 2008」の図録所載 |
を参考にしました。荒木康子氏は「美の巨人たち」のインタビューにも答えていました。
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福島県立美術館 |
松ぼっくり男爵
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)の「松ぼっくり男爵 Pine Baron」は、1976年に描かれた作品です。ワイエス59歳のときの作品ということになります。正方形の板の上にテンペラの手法で描かれています。
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アンドリュー・ワイエス (1917-2009) 「松ぼっくり男爵 - Pine Baron - 」(1976) (福島県立美術館) |
これは一見して「不思議な絵」です。「松並木」と「松ぼっくり」と、道に落ちている「松葉」はいたって普通ですが、そこに「鉄兜」が登場するのが不思議です。もし鉄兜ではなく何らかのカゴかバケツに松ぼっくりが入っていたとしたら、誰かが松ぼっくりを集め、あとで取りにくるまでの光景だと思うでしょう。それなら普通の光景です。しかしここに鉄兜がある。これはどういう意味なのか。
題名も不思議です。「男爵」とは何か。「松ぼっくり」と「男爵」を続けて言うのは(英語題名はPine Baron)どういう意味があるのか、謎です。心に引っかかる。
「描かれた経緯を知らないと真の意味が理解しがたい絵」があります。前回の No.150 「クリスティーナの世界」がそうでした。クリスティーナが小児麻痺であり、這いつくばるようにして我が家へ向かっている、ということを知らなければ、この絵の真の意味が理解できません。こういったたぐいの絵はワイエスには少ないと思うのですが「松ぼっくり男爵」はそういったタイプの絵です。
そして「クリスティーナの世界」と「松ぼっくり男爵」は他にも共通点があります。人の人生を絵の中に凝縮させたという共通点です。「松ぼっくり男爵」がなぜ「人生」なのか、それが以下です。
ワイエスはペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれ、生涯、生まれ故郷と別荘のあるメーン州クッシング以外には移動を好まず、ひたすらその周辺の風景や人物を描き続けたのは、前回書いた通りです。
そのワイエスの生家の裏手の丘の向こうに「カーナー農場」があり、カールとアンナのカーナー夫妻が経営していました。カーナー夫妻はドイツからの移民です。カールは1898年生まれで、シュヴァルツヴァルトの村の羊飼いでしたが、第1次世界大戦にドイツ陸軍に従軍し、鉄十字勲章を受けました。故郷に戻ってから一歳年下のアンナと結婚したのですが、おりからのインフレで生活が苦しく、1926年にアメリカに渡って開いたのがカーナー農場でした。「松ぼっくり男爵」に描かれている鉄兜は、カールが第1次世界大戦で使ったドイツ軍のヘルメットです。戦場でカールの命を守ったヘルメットでした。
そういえばこのヘルメットの形は少し変わっています。ヘルメットの周囲の一部が突き出た形をしている。この形をどこかで見たことがあるなと思い出すと、それは第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を描いた映画でした。そこでのドイツ軍のヘルメットがこういう形をしていた。ドイツ軍は第一時世界大戦当時から似た形のヘルメットを使っていたことになります。 |
カールは無骨で粗野な男です。アンナは英語がしゃべれず、話相手もいませんでした。内気で、気むずかしい女性です。二人は日の出から日没まで、農場で働き詰めでした。
ワイエスがカーナー農場を初めて訪れたのは13歳の時だといいます。16歳のときには「カーナー農場の春景色」(1933)という油絵を描いてカーナー夫妻にプレゼントしました。カール・カーナーはワイエスより19歳年上です。16歳の少年が35歳の男に絵をプレゼントする・・・・・・。ワイエスとカーナーの関係を物語っています。ワイエスは、この10代の時から約60年間もこの農場に通い続け、カーナー夫妻や農場をモチーフに絵を描き続けたのでした。カールが亡くなったのは1979年・81歳、アンナは長生きをし、1997年・98歳で亡くなりました。
このカーナー農場の入り口には松並木がありました。これは、カールが故郷のドイツから持ってきた松の苗木を植えたものです。ホームシックになったアンナをなぐさめる意味もあったと言います。
ワイエスが59歳、カールは78歳の時です。火を起こすための松ぼっくりを集めるのはアンナの仕事でした。ワイエスはたまたま、農場の松並木で鉄兜に入ったままの松ぼっくりを目撃するのです。その時の様子は、ワイエス自身がメトロポリタン美術館・館長のトーマス・ホーヴィングのインタビューに答えて語っています。以下にそれを引用します。
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ちなみに上の引用に出てくる "ニーダム" とは、ボストン近郊の町で、父親のニューウェル・C・ワイエスが生まれ、育った町です。アンドリューも子供の頃、夏に何回か訪れています。 |
ワイエスは以前にも、アンナがカールの鉄兜をバケツがわりにして松ぼっくりを集めているのを目撃したことがあります。そのアンナの姿のスケッチが何枚か残っています。しかしこの時、目撃した光景にアンナの姿はなかった。それが画家に不思議な感覚を与え、絵画へのインスピレーションとなった。そこにアンナの労働がなかったからこそ、逆にカールとアンナを象徴するように見えたのだと思います。
題名についてですが、チャッツ・フォードの人たちは、頑固者のカールをバロンと呼んだようです。福島県立美術館の学芸員の荒木康子氏は「美の巨人たち」のなかで、次のように語っていました。
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アンドリュー・ワイエス 「カーナー夫妻」(1971) 「アンドリュー・ワイエス展」(1995)の図録より引用 |
絵に込められたもの
「松ぼっくり男爵」は福島県立美術館で見た以降、2回の「ワイエス展」で見たことがあります。愛知県立美術館(1995)と、Bunkamura ミュージアム(2008)です。
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愛知県美術館(1995.2.3 - 4.2) Bunkamura ザ・ミュージアム(1995.4.15 - 6.4) 兵庫県立近代美術館(1995.6.10 - 7.3) ポスターの絵は「遠雷 - Distant Thunder」(1961) |
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Bunkamura ザ・ミュージアム(2008.11.8 - 12.23) 愛知県美術館(2009.1.4 - 3.8) 福島県立美術館(2009.3.17 - 5.10) ポスターの絵は「Gunning Rocks」(1966)。福島県立美術館蔵。Gunning Rocks とは、ワイエス家の別荘があったメイン州クッシングに近い、沿岸の小島。描かれているのはネイティブ・アメリカンとフィンランド人の血をひくウォルター・アンダーソンという人物で、ワイエスとはよく小舟で一緒に海にでかけた。 |
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アンドリュー・ワイエス (1917-2009) 「松ぼっくり男爵 - Pine Baron - 」(1976) (福島県立美術館) |
「松ぼっくり男爵」だけではないのですが、ワイエスの鋭い観察力と迫真の描写には驚きます。松の幹はきわめてリアルに、細密に描き込まれています。"松やに" が浮いているところなどは、従来の絵にはあまりないのではと思います。松の葉は1本1本描かれ、しかも色を変えながら描かれています。松ぼっくりからは、カサカサ音がするような乾いた感触まで伝わってきます。ワイエスのインタビューにあるように、松ぼっくりにも "松やに" が描かれている。
細部の描写は真に迫っているのですが、しかし、福島県立美術館の荒木康子氏は「実際の光景とは違う」と指摘しています。
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実際の松はもっと細く、松並木も短い。この絵は実際のカーナー農場より誇張されている、という指摘です。確かにこれによって、見る者の視線は奥に吸い込まれ、松並木はずっと奥まで続いているように見えます。
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アンドリュー・ワイエス 「ドイツ人の住むところ」(1973) (福島県立美術館) カーナー農場の入口を描いた水彩画で、「松ぼっくり男爵」と同じ場所である。実際の松並木はこの絵に近かったと想定できる。「アンドリュー・ワイエス展」(2008)の図録より引用 |
しかしワイエスが実際とは違う「太い幹の、長い松並木」にした理由は他にもあると思います。つまり、それによってカーナー夫妻がたどってきた長い年月を表現しようとしたのでしょう。インタビューにあるように、ワイエスの松に対する見方は「筋張った枝は全くタフで、弾力があり、たわみ、そして鉄よりも強靱だ」というものです。これはそっくりそのままカーナー夫妻のことではないか。
シンプルに解釈すると、画家は「松並木、松葉に覆われた道」にカーナー夫妻の人生そのものを象徴させ、鉄兜でカールを、松ぼっくりでアンナを表したのだと思います。同時に、農場の豊かな自然と、そこでの営みの一端を描き込んだ。
この絵は、人生の歳月と人の精神を絵画に結晶させたものだと思います。それは前回の「クリスティーナの世界」と大変よく似ています。クリスティーナ・オルソンは、ワイエス家の別荘があったメイン州クッシングの女性です。一方のカールとアンナのカーナー夫妻はペンシルベニア州のワイエスの生家の隣人です。描かれている場所、テーマ、画題は全く違うが、人生をギュッと一枚に凝縮させたという点では同じでしょう。描かれているのは、あくまで現実にワイエスが目撃した、ある一瞬です。その一瞬の光景に、画家は人の精神と人生を結晶させた。
そして前回にも書いたのですが、ワイエスの、緻密な作業を膨大に積み重ねるテンペラ画法が、二つの絵が表現しようとしたものにピタッとはまっていると、改めて思わずにはいられません。
さらに付け加えると「松ぼっくり男爵」は、ワイエスの自然やモノへの愛着・こだわりを如実に示した作品だとも言えます。インタビューにもあるようにワイエスは「松葉」「松ぼっくり」「鉄兜」「風の音」などに並々ならぬ関心や愛情を注いでいます。このあたりはワイエスの色使いとあいまって、日本人の琴線に触れるところでしょう。そのあたりも「松ぼっくり男爵」の見どころだと思います。
(次回に続く)