日本語の21世紀のために
作家・評論家の丸谷才一氏(1925-2012。大正14-平成24年)と評論家・劇作家の山崎正和氏(1934- 。昭和9年-)が、日本語をテーマに対談した本があります。『日本語の21世紀のために』(文春新書 2002)です。この本に「全然」と関係した一節がありました。引用してみます。
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山崎・丸谷両氏の言語感覚をまとめると、
山崎正和
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丸谷才一・山崎正和 「日本語の21世紀のために」 (文春新書 2002) |
◆ | 「とても」は、「とても出来ない」というように否定的に使うのものであり、 |
◆ | 「とても嬉しい」というような肯定的な使い方は誤用である |
という言葉の規範意識が、山崎正和氏の祖母の時代(おそらく明治の後半から昭和20年代頃まで)には強くあった、ということなのです。
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『日本語の21世紀のために』は2002年に出版された本です。しかし調べてみると、すでに1964年(昭和39年)の段階で山崎氏とほぼ同じ主旨を書いている新聞記事があるのです。
以下、否定表現に使われる「とても」を、文章としては「とても出来ない」で代表させ、肯定表現で使われる「とても」を「とても嬉しい」で代表させることにします。 |
昭和39年の新聞記事
1964年(昭和39年)10月6日の朝日新聞に、次のようなコラムが掲載されました。ちなみにこの日付は、東海道新幹線の開業(1964.10.1)と東京オリンピックの開幕(1964.10.10)の間にあたります。
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このコラムは、
「全然いい」が批判されるが、「とてもいい」が広まったという "前例" がある。かつて「とても」は否定表現を伴う言い方だった |
という点で、40年近くあとの山崎正和氏の発言とそっくりです。この記事には2つのポイントがあると思います。前回の No.144「全然OK」で、
最近「全然いい」という言い方を聞くようになったが、これは日本語の誤用である |
という主旨の投書(新潟県・会社員・49歳)が2015年4月7日の朝日新聞に掲載されたことを書きましたが、「その種の意見は少なくとも30年以上前からあったと推定できる」としました(辞書の記述からの推定)。しかし上の朝日新聞のコラムから明らかなことは、その種の意見は少なくとも50年以上前からあったということです。つまり新潟県・会社員氏が生まれる前からあり、それが綿々と今まで続いているわけです。
もう一つのポイントは、昭和39年の段階では全く普通になっていた「とても嬉しい」という表現が「明治四十年代ごろから広まった」としていることです。その根拠は書いていないのですが、朝日新聞の校閲部門の人が書いたと思われるコラムなので、何らかの研究ないしは調査をもとにしたと想像できます。
この「とても嬉しい」が広まった時期については、芥川龍之介のエッセイにもでてきます。
芥川龍之介 『澄江堂雑記』
芥川龍之介の短文エッセイ集『澄江堂雑記』(1923 大正13)に「とても嬉しい」が広まった時期が出てきます。ちなみに「澄江堂」とは芥川龍之介自身の号です。
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このエッセイで芥川龍之介は、肯定の「とても」が数年以前から東京で言われ出したと書いています。ということは大正時代かそれ以前からということであり、これは朝日新聞の明治40年代からとの記述とほぼイコールということになります。
芥川龍之介は、江戸時代の芭蕉一門の句集『猿蓑』におさめられた三河出身の俳人の句に "肯定の「とても」" が出てくることを引き合いに出して、それが「三河ことば」であり、東京で使われるまでに二百年かかったと書いているのですが、もちろんその根拠はないはずです。これは「とても手間取つた」という "オチ" につなげるための、一種のジョークでしょう。
芥川龍之介は1892年(明治25年)に東京に生まれた人です。当然、小さい時から慣れた親しんだ言い方は「とても出来ない」であり、それが正しいと思っていたと想像できます。それは「とても嬉しい」が三河地方の方言、つまり「田舎ことば」だという書き方に暗示されていると思います。
しかし私は、三河方言だろうという芥川龍之介の説に "とても" 関心があります。というのは、個人的な経験ですが、私の知っているAさんを思い出してしまうからです。
Aさんは関西出身ですが、名古屋の大学を出て三河地方の企業に就職し、豊田市に自宅をかまえました。そして20年後に転職し、家と家族を豊田市に残したまま首都圏に単身赴任しました。その単身赴任のときの約6年間、Aさんと付き合ったのですが、彼の口癖が「とっても」だったのです。「それは、とっても難しいですね」というような言い方を、Aさんはよくしていました。
ひょっとしたら三河地方の人は、今でも口頭語としての「とても(とっても)」を、平均的な日本人より多く使うのではないでしょうか。違うかもしれない。あくまでAさんの個人的な口癖のような気もします。しかし「芥川龍之介説」がちょっと気になります。現在、三河地方出身の知人がいないので確かめられませんが、今度新たに付き合う機会があったら観察してみたいと思います。
「全然」の前例としての「とても」
芥川龍之介のエッセイによって分かるのは「とても嬉しい」が明治末期、ないしは大正時代から東京で広まったことです。しかし実は、肯定的「とても」が遙か昔においては一般的だったのです。梅光学院大学・准教授の播磨桂子氏の論文に、『「とても」「全然」などにみられる副詞の用法変遷の一類型』(九州大学付属図書館)があり、そこに「とても」の歴史が調査研究されていました(実は引用した朝日新聞のコラムの存在も、この論文で知りました)。この論文によると「とても」の歴史は以下のように要約できます。
① | 「とても」は「とてもかくても」から生じたと考えられている。「とても」は平安時代から使われていて「どうしてもこうしても、どうせ、結局」という意味をもち、肯定表現にも否定表現にも用いられた。『平家物語』『太平記』『御伽草子』『好色一代女』などでの使用例がある。 | ||
② | しかし江戸時代になると否定語と呼応する使い方が増え、明治時代になると、もっぱら否定語と呼応するようになった。 | ||
③ | さらに大正時代になると、肯定表現で程度を強調する使い方(=とても嬉しい)が広まり、否定語と呼応する使い方と共存するようになった。 |
この播磨論文を踏まえて芥川龍之介のエッセイが書かれた背景を振り返ると、次のようになるでしょう。
◆ | 芥川龍之介は「とても」を否定的に使うものと思っており、大正時代から東京で言われだした「とても嬉しい」のような表現に違和感をもっていた。 | ||
◆ | 彼は江戸時代の発句に「肯定的とても」があることを発見し、方言だろうと推測した。その方言が東京にまで波及したと考え、それをエッセイにした。 | ||
◆ | ところが、実は「肯定的とても」は江戸時代以前から伝統的にある言い方であり、江戸時代に「否定的とても」が広まったとはいえ、まだ残っていた。 |
「否定」にも「肯定」にも使われる言葉だったが、ある時期から「否定」が優勢になり、その後「肯定」が復活する・・・・・・。この状況は、江戸時代に "輸入" された漢語である「全然」の歴史と大変によく似ています。さらに播磨論文は、このような「3段階」の歴史をもつ日本語の副詞は他にもあり、「断然」と「なかなか」がそうだと指摘しています。なお、以上のことは主に(特に①②は)「文章語」の調査であることに注意すべきだと思います。
"「とても」は否定語と呼応すべきだ" という規範意識は江戸末期から明治初期に確立し、朝日新聞のコラムが書かれた昭和30年代には完全に無くなっていた、と考えられます。この規範意識が「生きていた」期間を、仮に明治元年(1868年)から昭和35年(1960年)とすると、それは約90年間ということになります。
一方、「とても」の "後継" である「全然」を考えてみると、"「全然」は否定語と呼応すべきだ" という規範意識が生まれたのは昭和20年代後半でした(前回の、No.144「全然OK」参照)。仮にそれが昭和25年(1950年)だとし、規範意識が存続する期間が「とても」と同じだと仮定すると、2040年には規範意識が完全になくなるということになります(あと25年かかる)。メディアの発達度合いが違うので一概には言えませんが・・・・・・。
このように考えると、2015年の段階で "「全然いい」は誤用" という投書が新聞に載る(前回)のは当然なのかもしれません。誤用という規範意識ができてからまだ60数年した経っていないのだから。
「とても」と「全然」の次にくるのは ?
「とても」と「全然」の使われ方の歴史を振り返ってみて気がつくことがあります。「とてもは否定で使うべき」という規範意識が世の中から完全に無くなった時期(昭和20年代と推定できる)とほぼ同じくして「全然は否定で使うべき」という規範意識が生まれたことです。これは全くの偶然でしょうか。
偶然でないとしたら「打消しと呼応して完全否定を表す副詞」を日本語は必要としている、ということかもしれません。英語の not at all に相当する語ということです(前回の、No.144「全然OK」参照)。現代語では「まるっきり」がそうだと思いますが、ちょっと会話調過ぎる言い方です。「からっきし」もあるが、あまり使いません。ひょっとしたら将来、「全然OK」「全然いい」という表現に違和感を持つ人が全くいなくなったとき(2040年頃 ?)、「もっぱら打消しと呼応する、文章語としても使える新たな副詞」が出現してくるのかもしれまんせん。
(次回に続く)