No.81 - 2人に1人が買春

No.48「日の丸起立問題について」で、満州事変以降の新聞による戦争への誘導報道について書きました。


関東軍が満州事変を引き起こすと(1931)、大新聞は関東軍擁護・支那批判の論陣を張りました。満州での日本の行動を非難した国際連盟の調査団の結果が出ると、大新聞だけでなく全国の新聞社132社が共同宣言を出し、満州国設立の妥当性と国際連盟批判のアピールをします(1932)。日本が国際連盟を脱退して世界の「孤児」になったのは、その翌年(1933)です。

No.48「日の丸起立問題について」

歴史を調べてみると、満州事変以前は新聞もすいぶん軍部を批判する記事を掲載していました。この「軍部批判」とその後の「戦争誘導報道」には共通点があるというのが、No.48 に書いたことです。整理すると、

満州事変の以前は、新聞もすいぶん日本の軍部を批判する記事を掲載していた。
しかし満州事変が起きると軍部を擁護し、共同宣言まで出して、むしろ軍部の先をゆく報道をした。
軍部批判と軍部擁護には明らかな共通点がある。それは「国民にウケる記事」という共通点である。軍部は横暴だ、軍人はえらそうにしていると苦々しく思っている人が多い時には軍部批判がウケる。日本はもっと中国大陸に進出しようと思っている人が多いときには軍部擁護がウケる。

ということでした。

現代の新聞はもちろん戦争誘導をしているわけではありません。新聞は(ほとんどの場合)事実を正確に報道しているし、社会の不正や歪みを明らかにしている。オピニオン・ページにも、よりよい社会や市民生活のための(各新聞社なりの考えに沿った)主張が書かれていると思います。

しかしそいういう基本姿勢とは別に「読者にアピールすることを書く」「読者の目を引くことを書く」という傾向がいろいろとある。それは何も「戦争」というような国家的有事の状況ではなくても、ごく日常的に起こるさまざまな出来事の報道にもあって、そのことは我々読者が十分注意しないといけないと思うのです。今回はそのことを書いてみたいと思います。


2人に1人が買春かいしゅん経験


一つの新聞記事の例をあげます。少々昔の記事ですが、印象に残る記事だったので今でも切り抜きを持っています。1998年の読売新聞です。


男性の2人に1人が「買春経験アリ」
- 2千500人調査
- 「後ろめたさ」は感じているようです
- 「アリ」の6割「買春ない社会を」

全国の男性二千五百人を対象に民間女性グループが行った意識調査で、二人に一人は「買春かいしゅん経験がある」という結果が、二日までにまとまった。経験者の六割以上は売買春のない社会を望むとも回答、後ろめたさを感じている様子がうかがえる。

調査したのは、女性問題に関する国際的なネットワークを持つ市民団体「アジア女性資料センター」(東京・渋谷)を拠点に活動する弁護士などのグループ「男性と買春を考える会」。東京女性財団の助成を受け、昨年八 - 十月に各都道府県で調査用紙二万枚を配布、約二千五百人の回答を得た。買売春問題に取り組む団体や個人的つながりなどを通じて協力を求めたため無作為抽出ではないが、男性の買春体験をこれだけの規模で尋ねた調査は珍しい。

「買春経験がある」と答えたのは46.2%。経験なしの51.3%とわずかの差だった。妻や恋人などパートナーの有無による差は見られなかった。買春した場所・機会(複数回答)は、個室浴場(ソープランド)が最も多く、経験者の70.3%、海外旅行・出張先で経験した人は23.5%だった。

買春の経験についてパートナーには「絶対に隠す」「後ろめたいので隠す」が計55.4%で、「知られても構わない」(23.9%)、「積極的に話す」(2.6%)を大きく上回った。

また、「売買春のない社会が望ましい」という意見を支持した人が全体の70.6%、経験者の61.1%あった。

読売新聞(1998.6.3)

記事の見出しである「男性の2人に1人が買春経験アリ」を見ると、えっ!と思いますね。そんなに多いはずないだろうと・・・・・・。

記事の内容を読むと、そのカラクリがすぐに分かります。アンケートに回答した人は約2500人と書いてありますが、きっかり2,500人だったとして、調査用紙を20,000枚配布したのだから回答率は12.5%です。12.5%のうちの46.2%が「買春経験あり」と答えたのだから、それは20000枚を母数とすると5.8%です。従って正確に言うと、

調査対象とした人の5.8%が「買春経験あり」と答えた

というのが正しい。あるいはもっと踏み込んで、

調査対象とした人の少なくとも5.8%は買春経験がある

と言えるかもしれない。回答した人が正直に答えている前提ですが。


僅かな部分を全体に当てはめる愚かさ


12.5%というような低い回答率の調査で、全体がどうかという推定は全く出来ません。このような低い回答率の場合、買春アンケートに回答した人は「回答するという特別な行為をした理由」があると考えられます。それはおそらく買春したことがあるとか、知り合いが買春したとか、海外旅行で買春のオファーがあったとか、経験はないが売買春問題に関心があるとか、とにかく「買春問題の近辺にいる人」です。ということは、回答しなかった87.5%の「普通の」人は、買春という行為の経験も興味も意識もないのがほとんどだと推定されます。そういう人は「わざわざ」買春アンケートに回答したりは普通しないでしょう。「買春したことは? → ない」「売買春のない社会が望ましいと思いますか → はい」とだけしか記入しようのないアンケートに回答する人は少数のはずです。

余談になりますが「僅かな部分を全体に当てはめる」という「手法」は、有名な米国「ハイト・レポート」(シェア・ハイト著。1976/1982)と同じですね。アメリカ人の性的経験を調査したこのレポート(1回目:女性、2回目:男性)は、その数字の扱い方がデタラメです。数学者のA.K.デュードニーは、数々の「数学の罠」を解説した本の中で次のように書いています。( )内は引用注です。


ハイトの本に書かれた意見は、2回の世論調査で収集したものによる。初めの調査では、これに気軽に応じてくれそうな女性が多いと見られるところ   女性運動グループ、女性雑誌、そのほかのいくつかの組織を中心に、およそ10万通の調査用紙を郵送した。そのうち3019通が回収され、彼女はこの回答から一般的な結果を導けるだろうと考えた。2回目の調査では、用紙は11万9000人の男性に郵送され、7000通が回収された。ハイトは世論調査の専門家ではないので、回答数が多ければ、それだけで彼女の結論の根拠になると完全に信じていた。回答者の70パーセントが配偶者以外と性的交渉を持ったことがあると答えたことから、彼女はその数字が大衆全体にも適用できると気軽に考えたのだ。

彼女の標本の扱い方は、理想とは遠いものだ。ニューハンプシャー大学調査センターのディレクターであるデビッド・W・ムーアは、科学的な世論調査では、このように低い回答率ではほとんと意味のない結果しか得ることができないと説明している。(2回目の)回答総数の7000という数字自体は大きいものだが、回答率、すなわち7000を11万9000で割った結果の6パーセントという数字はあまりに低い。ムーアは著書「スーパー世論調査員」("The Super Pollsters")のなかで、世論の調査方法と結果の扱い方について述べている。とくに、回答率が低いとその調査の結果がいかにゆがめられてしまうかについて、過去の大規模な世論調査の例をあげて説明している。回答率が低ければ低いほど、回答した人たちには回答した何か特別な理由があったに違いないと考えることができる。ハイトの(1回目の)調査でいえば、それは女性の欲求不満について尋ねているのだから、相対的にみて、自分の性生活に満足している女性は回答していないのではないかと考えられるのだ。

A.K.デュードニー『眠れぬ夜のグーゴル』
(田中利幸:訳。アスキー出版社。1997)

「買春アンケート」は「ハイト・レポート」にならったのかもしれません。テーマに類似性があるし、調査用紙の配布方法も似ている。「男性の2人に1人が買春」と「70%が配偶者以外と性的交渉」という数字も似ている。もし仮に「買春アンケート」の回収率がハイトレポート(2回目)のように6%だったら「70%が買春」となったかもしれません。



「買春アンケート」に戻って、このアンケートには他の問題点もあります。正直に回答しているかどうか分からないという問題点です。さらに無作為抽出でないことも問題です。「買売春問題に取り組む団体や個人的つながりなどを通じて協力を求めた」とありますが、調査対象そのものにかなりのバイアスがかかっていることがうかがえます。

とにかくこのアンケートは、買春経験者の意識調査としては(正直に答えるているという前提で)意味があるでしょうが、男性の何割が買春経験者かという推定には全く役に立たないのです。それは記事の内容を読むと一目瞭然です。

それにもかかわらず、記事の見出しは

男性の2人に1人が「買春経験アリ」

です。おそらく新聞社側に用意されている言い訳は「男性の2人に1人が買春経験アリ」と言ったのは「男性と買春を考える会」というグループであり、新聞社としてはそれを報道しただけだ、というものでしょう。しかし世の中にたくさんある「グループ」の言うことをそのまま見出しにするのでは、新聞の役割は無いに等しい。

新聞を読む多くの人は見出しだけを見て内容を判断します。それこそが見出しの目的です。その意味からすると、この記事は捏造記事と言っていいと思います。そして記事を書いた記者もデスクも確信犯的に見出しをつけている。なぜなら、記事内容を見ると事実はこの見出しから受ける印象とは全く違うということが分かるように書いてあるからです。回答率が分かるように書いてあるし、無作為抽出ではないことがちゃんと断ってある。それは記者やデスクの「良心」かもしれません。新聞社は「科学的な世論調査」のプロフェッショナルだという「プライド」からくる良心です。だからこそ、この記事は捏造見出しだと言えるのです。

そして案の定、この見出しに騙された人が出てきました。記事の1週間後の読者投書欄に、以下の文で始まる投書が掲載されたのです。


悪いことと知り なぜ買春を
主婦 64才(埼玉県在住)

男性のほぼ二人に一人に買春の経験があるという民間女性グループの調査結果にあぜんとした。(以下略)

・・・・・・・・

読売新聞 投書欄「気流」(1998.6.10)

読売新聞もずいぶん丁寧なものです。捏造見出しをつけた記事を掲載し、それに騙された人の投書まで掲載するのだから・・・・・・。この記事を掲載した目的はこれで十分に達成されたということでしょう。



この記事は極端な例だとは思います。しかしこれほど極端ではなくても、これに類する記事は読売新聞だけでなく現在の新聞にしばしばあり、我々読者は注意して記事を読むべきだと思うのです。

2人に1人が買春という記事から、新聞記事が一般的に持っている性格が透けて見えます。

 新情報に価値がある 

ニュースは news(ニューズ)であり「新しいもの」という意味です。新聞記事としては、新規性のある情報、人々に知られていない情報、人々を驚かせる情報に「価値」があるわけです。それが社会や人間生活にとって重要か重要でないかは問いません。とにかく新規性です。「2人に1人が買春」というのは、あまり聞いたことがない「新規性の高い」情報です。当然ですが・・・・・・。だから見出しが捏造される。

 警告・警鐘に価値がある 

一般に、売買春を無秩序に放置しておくと社会にとってのマイナスをもたらします。女性の人権問題とか、児童虐待の問題とか、性感染症の蔓延とか、いろいろある。従って売買春を合法化している国(ヨーロッパの多くの国やタイなど)では、売買春を国の認可施設に限ってマイナス面を最小限にしようとしています。

一方、日本では売買春は非合法です。従って「売買春が広まっている」と思える情報は「日本社会に対する警告・警鐘」になります。新聞はこの「警告・警鐘」に価値がある(と考えられている)のです。だから見出しが捏造される。



新聞記事は「新情報に価値がある」「警告・警鐘に価値がある」という一般的な性格があり、それが「2人に1人が買春」という見出し捏造につながるのだと思います。これは極端な例だとは思います。しかし捏造までいかなくても「誇張」や「大袈裟」や「一方的すぎる」という記事は多々ある。そして、このような記事が書かれる根本のところには、

新聞は商品である

という「あたりまえのこと」があると思うのです。以降、「新聞は商品である」ということから派生する各種の側面についてです。


新聞の顧客満足度


我々は市場経済にもとづく資本主義の社会に生きています。この資本主義社会を支えているのが会社(特に株式会社)であり、商品やサービスを創り出して消費者に購入してもらい、そのことで経済が発展し、それが国の税収を支え、福祉の増進や安全な社会の実現につながっています。

新聞社も株式会社であり、その最大の商品は新聞です。この商品は競争にさらされていて、その競争を勝ち抜いてより多くの読者を獲得することにより、購読料収入が増え、広告収入も安定する。それによってデジタル新聞などに必要な投資の余力が生まれるわけです。

商品の販売数を伸ばすための最大のポイントは「顧客満足度の向上」です。顧客満足度の高い商品を消費者に届けるのが企業というものです。そして新聞という商品の顧客満足度を決める最大のものが、新聞の記事内容そのものです。

No.48「日の丸起立問題について」と今回の冒頭において、新聞の

 ・満州事変以前の軍部批判報道
 ・満州事変以降の戦争誘導報道

について、この二つは全く正反対に見えるけれども明確な共通点があり、それは両方とも「読者にウケる」ことだと書きました。言い換えると、前者は軍部の「横暴」を苦々しく思う読者の満足度が高く、後者は中国にどんどん進出しろ、もっとやれと思う読者の満足度が高いわけです。もちろんこの場合の「読者」は同じ人です。

満州事変は80年以上の前の出来事であり、もちろん現在の政治・社会の状況は当時とは全く違うのですが、この「顧客満足度の高い記事を読者に届ける」という姿勢は現代も続いていると思うのです。「顧客満足度の高い記事」の例を2点だけあげます。

 学歴社会批判 

「学歴社会批判」という記事や社説のスタンスが根強くあります。いわゆる有名大学(従って、入学するのが難しい難関大学)の出身者が社会における上位のポジションを得て、従って収入も多いという社会構造を批判的に報道・解説するものです。

しかしこれはちょっと考えてみると奇妙な議論です。たとえば企業が大学生を面接で採用するときに「有名大学だから」ということで有利になるような判断をしたとします。ないしは、特定の有名大学と連携して推薦で採用したとします。これは企業の行動としては理にかなっています。学歴という「ある程度、客観性のある基準」を考慮しているからです。有名大学・難関大学に入学したということは、本人がそれなりの努力をしてきており、かつ知的水準も標準以上だと推定できます。学歴を全く無視するとしたら、その方が企業の行動としては異常でしょう。

学歴でなく実力で、という議論は当たりません。実力は数10分の面接では分かりません。コミュニケーション能力や自己表現力は分かるかもしれませんが、それとて演技可能です。会社でどういう「実力」を発揮するかは本人の能力と入社後の努力いかんです。もし仮に、入社後に本人の昇進が能力や仕事上の成果でなく学歴や出身大学で決まるのなら、それこそ「いびつな」学歴社会(=学閥)と言えるでしょう。しかし、そんなことを続けていたら会社はおかしくなります。

「学歴社会」の反対語は「階級社会」でしょう。入社試験でいうと、親の経済力や親の職業、どういう家系の出身かで入社の成否が決まる社会です。階級社会はやめようということが学歴社会の意味です。つまり家が貧しくても、どういう家系であっても、学歴さえ獲得すれば社会の上位のポジションに行く道が開けるということです。もちろん道が開けたあとに本当に上位に行けるかは本人の努力次第ですが・・・・・・。そういう社会の方が健全です。家系や一族の財産といった固定性の強いものではなく、学歴という流動性の高いものを尺度にすることにより、社会が活性化する。

従って目指すべきは、たとえ親の経済力がなくても本人が努力すれば「学歴」を取得できる社会、有名大学にだっていけるという社会です。つまり、各種の公的な学習のしくみや奨学金制度の充実です。親が高収入でないと有名大学(の特定学部)へは行けないという社会を排除していく方向が望ましい。「学歴社会」が崩壊しないような国のシステムが必要なのです。



ではなぜ「学歴社会批判」なのか。それは新聞にとってみると「顧客満足度」の高い記事だからと考えられます。「学歴社会批判」は暗に「有名大学出身者批判」になっている。有名大学出身者は、新聞の購読者全体からすると一握りです。大多数の購読者はそうではない。従って批判は顧客満足度を向上させる。

消費者向けに大量販売される商品にはさまざまな購入者がいます。「特定の性格をもった顧客層」(=セグメント)に対してだけの「魅力づけ」はできません。全国紙でいうと、購読者の性別とか年齢や職業や居住地域でターゲットを絞ったりはできない。しかし「非・有名大学出身者」は新聞購読者なかでの大セグメントを構成しているはずです。95%以上とか・・・・・・。その大セグメントの満足度を向上させるのは、商品としての意味が大いにあるのです。

 被害者視点だけの裁判報道 

大きな事故の責任者が刑事訴訟で訴追されるという裁判があります。例をあげると、

大列車事故に関して鉄道会社の運行責任者や会社幹部が訴追される。
イベントで狭いスペースに人が集中して圧死者が出た事件において、警察の警備責任者が訴追される

などですが、こういった事故に起因する訴訟はいっぱいあります。上の例はすぐ思いついたものをあげただけで、特にこの二つを取り上げた意図はありません。医療事故や製品欠陥に起因する事故、薬害訴訟や公害訴訟もあります。

こういう訴訟における被害者の遺族の心境は大変よく分かります。何の落ち度もない人が突然亡くなる。遺族としてはどうしても納得できません。責任者が裁判で有罪になり処罰されることで、事故が少しでも起きにくいような制度や仕組みやルールにできたとしたら、亡くなった人の無念も少しは晴らせる。被害者の命と引き替えに社会が少しでも良くなるのだから・・・・・・。おそらくこういう心境だと思います。遺族が民事賠償訴訟を起こす場合も、賠償金を獲得することが目的ではないでしょう。社会が少しでも良くしたいという心境だと思います。

従って、被告が無罪になったり、有罪になっても微罪だったりすると、遺族としては「不当判決」「不当裁判」だということになります。「裁判官は遺族の心境を全く理解していない」「これでは不正を見過ごすことになる」「故人が浮かばれない」というようなコメントが出ることもある。これらのことは大変よく理解できて、遺族の心情としては当然だと思います。

問題はそれを報道する側の姿勢です。そこに強い違和感を覚えることが多い。つまり新聞としては、

被害者の親族・遺族の視点
裁判や法律のあり方の視点

の両方が必要だと思うのですが、前者の「被害者親族・遺族の視点」が強調された報道になる傾向が強い。これではまずいと思うのです。

裁判官は法律に照らして被告が有罪か無罪を判断し、量刑を言い渡します。もちろん過去の判例も参照されます。日本は法治国家であり、裁判官は「法の番人」です。

裁判官に「世の中の不正を正す役割」や「世の中から悪をなくす役割」を求めてはなりません。裁判官は大岡越前守ではない。法律に照らして(刑事訴訟なら)検察官と弁護人のどちらの言い分がより正当か、それを判断するのが役割です。裁判官に「世の中を正す役割」を求めるという、その態度自体が大変まずいと思います。世の中を正すというような重要な役割を法律の専門家に求めてはいけないのです。

もし裁判官が市民感情を考慮して法律を過大に拡大解釈し、被告に不利(ないしは有利)な判決を言い渡したとしたら、それこそ世の中を正すこととは逆行します。なぜなら、市民感情とは相入れない判決を出さざるを得ないという法律の不備を覆い隠すことになるからです。法律にもとづいて「市民感情とは相入れない判決」が出ることこそ、法律を改正したり、新たな法律を制定する原動力になるはずです。法律の改正・制定はもちろん国民の代表である議会の役割であって、裁判所ではありません。それが学校で習った三権分立の基本です。不当な判決ではなく、法律が不備なのだし、法律が時代の変化に追従できていないのです。

我々は(そして大多数の新聞購読者は)どうしても被害者の感情に自己を同一化します。いつ自分が被害者になるかもしれないと思うからです。反対に事故の責任を問われた被告にはシンパシーを感じにくい。自分が列車運行の責任者になる姿は想像しにくいし、警察の警備責任者である姿も考えにくい。

結局のところ「被害者親族・遺族の視点」だけが強調された報道というのは、大多数の購読者の心情にマッチしていて、従って「顧客満足度」が高いのだと思います。しかしそれでだけの報道は、社会をより良い方向に向かわせることにはならない。このことはよくよく注意すべきだと思います。

次回に続く)

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