No.35「中島みゆき・時代」において、朝日新聞社が『中島みゆき歌集』を3冊も出版していることに触れて、
歌は最低限「 詞 + 曲 」で成り立つので、詩だけを取り出して議論するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに歌集(詩集)を出した気持ちも分かります。 |
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中島みゆき全歌集Ⅱ (朝日新聞社 1998) |
確かに、曲として歌われる「詞」の言葉だけに注目し「詩」として鑑賞したりコメントしたりすることの妥当性が問題になるでしょう。あまり意味がないという意見もあると思います。特に「夜会」のために作られた曲となると、本来は劇の一部なので話は複雑です。
しかし、こと中島作品に限って言うと、彼女はそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する」と暗黙に宣言していると思うのです。その点が「詩」として鑑賞する大きな「よりどころ」です。その中島さんの「言葉の重視宣言」とでも言うべきものを以下にあげてみます。
言葉の重視宣言1 : 象徴詩
中島さんがプロのシンガー・ソングライターとして最初に出したアルバムは『私の声が聞こえますか』(1976)ですが、このアルバムは《あぶな坂》という歌で始まります。
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A1976『私の声が |
これはいわゆる「象徴詩」というやつですね。詩の中の「坂」「越える」「けが」「橋」「こわす」「ふるさと」「おちる」などの言葉は、現実そのままの説明ではなく、全てが《何か》の象徴になっている。作者が込めた意味や思いはあるのだろうけれど、それらの言葉をどう解釈するか、何の象徴と受け取るかは曲を聴く人(ないしは詩を読む人)に任されている・・・・・・。そういった詩です。
ちなみに中島さんは2004年に過去の自作をリメイクしたアルバム『いまのきもち』を出したのですが、その第1曲目も《あぶな坂》でした。思い入れのある曲なのでしょう。
《あぶな坂》に限らず、中島さんは「象徴」を前提とした詩をずいぶん書いています。全く違った雰囲気の詩をとりあげてみると、たとえば《キツネ狩りの歌》です。
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A1980『生きていても |
しかし『生きていてもいいですか』という「深刻な」タイトルのアルバムに童話をもってくる必然性はありません(このアルバムの第1曲目は《うらみ・ます》です)。やはりこの詩は「象徴」と考えた方が妥当です。「キツネ狩り」という言葉、ないしはそれを取り巻く状況が《何か》の象徴になっている。
大ヒットになった《地上の星》も「象徴」の視点で見るべきでしょう。
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A2000『短篇集』 |
その解釈がまずいわけではありませんが、もっと広くとった方がよいように思います。天体群は「自分の人生に影響を与えた恩師・友人・同僚たちの象徴」でもいいし、「昔つきあった女性(男性)たちを回想している」のでもよい。聴くときの気分によって異なるイメージを投影してもよいわけです。
《地上の星》のキーワードは「つばめ」です。一般的に中島さんの詩において「鳥」は
① | 状況を広範囲に見通せる視点をもった存在 | |
② | 最大限の自由を象徴する存在 |
のどちらか、あるいは両方を同時に表現するキーワードとして現れます(例外はある)。①②とも一般的に人が「鳥」に描くイメージとしてはごくノーマルなもので、《地上の星》は①です。
《地上の星》の「つばめ」と対応するかのように、「鳥」の視点からの詩があります。『短篇集』の翌年に出されてアルバム『心守歌』に納められた《ツンドラ・バード》です。
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A2001『心守歌』 |
もとより「象徴詩」と「普通の詩」に境目があるわけではありません。詩は多かれ少なかれ象徴詩、という言い方もできるでしょう。これは象徴詩、これはそうではないというような色分けはできない。しかし中島作品は「何かの象徴と考えられる詩」が非常に多いのが特徴だと思います。これが歌詞を「詩」としてとらえたい一つの理由です。
言葉の重視宣言2 : 無曲歌
中島さんはそのキャリアの初期から「私は言葉を大変重要視する、と暗黙に宣言している」と書きましたが。それを如実に示す「曲」があります。4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭に収録されている「元気ですか」です。これは曲のない「詩の朗読」です。
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A1978『愛していると |
この例にならうと「元気ですか」は「無曲歌」と言えるでしょう。中島さんの「無曲歌」は1曲しかないと思いますが、1曲でも十分です。つまり「私は、言葉 = 詩を大変に重要視する」と宣言するにはこれで十分なのです。
言葉の重視宣言3 : 短篇小説
「元気ですか」は「恋敵」の女性に電話をかける情景ですが、上に引用した以降もストーリーが続き、最後は「うらやましくて うらやましくて 今夜は 泣くと・・・・・・思います」という言葉で終わります。これはある種の短篇小説のような作品です。「無曲歌」つまり「詩の朗読」なので、必然的に小説的な展開をすることは納得できます。
そして中島作品には、普通の歌でも「短篇小説として書き直しても十分に成立する」と思える詩がいろいろとあるのです。これは中島さんの曲の大きな特徴と言えると思います。つまり、
◆ | 場面設定と状況設定があり | |
◆ | 状況の「展開」ないしは「進展」があり | |
◆ | その展開・進展の中で、人間の心理が突き詰められたり、心の動きの綾があぶり出される |
といった詩です。たとえば、8枚目のアルバム『臨月』に収められた《バス通り》ですが、その冒頭を引用すると以下のようです。
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A1981『臨月』 |
こういう展開の詩を、軽快そのもののメロディーに乗せてさらりと歌ってしまう中島さんの力量は相当なものだと思います。詩がうまいというだけでなく、作曲家、歌い手として総合的な力量です。
アルバム『臨月』の次に出された『寒水魚』に収められた《B.G.M.》も短篇小説のような作品です。
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「あなたが留守とわかっていたから / 嘘でつきとめた電話をかける」という最初の2行で、少々複雑なシチュエーションがさっと提示されます。「少々複雑」というのは、このたった2行に次のような「含み」があるからです。
◆ | 女(主人公)は、別れた男の居場所を知らない。当然、電話番号も知らない。 | ||
◆ | しかし女は、今日、男がその居所に居ないことだけは知っている(この理由はいろいろ想像できる)。 | ||
◆ | 女は、男の電話番号を知ると思われる人物(共通の友人?)に電話をし、嘘の理由を言って、電話番号を聞き出した(この嘘もいろいろ想像できる)。 | ||
◆ | 女はそこに電話をかける。男が留守だとは知っているが、誰かがそこに居るはずだと思うから。誰も電話に出ないという淡い期待を抱きつつ・・・・・・。 |
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A1982『寒水魚』 |
「カナリアみたいな声」と「呼び捨て」は、ショックだろうけれど想定内なのです。しかし電話から聞こえてきたBGMは、全く思いもしなかった。それは2人だけのメロディーだったはずです。そのメロディーを電話の相手の女性は、今ひとりでいるにもかかわらず部屋に流している。だから本当のショックがくるのです。男を取られただけでなくメロディーまで奪われたと感じて・・・・・・。二人だけのメロディーになった経緯を回想して短篇小説に書くなら、それもまた数ページになりそうです。
《バス通り》とはうって変わった雰囲気の、それこそ全体が「部屋に静かに流れるBGM」のような曲です。具体的な音楽を連想させるものは何もありません。どういうメロディーを想像するかは聴き手に任されています。
この詩の題名を「メロディー」とするのも大いにアリだと思います。それが詩の核心だからです。しかし中島さんはそうはしない。「私」を孤独と寂寥の世界に突き落とす最後の一押しとなるのは「BGM」という無機質で無色透明な言葉・・・・・・。彼女の詩人としての才能が光っていると思います。
「短篇小説」の極めつけは《南三条》でしょう。この曲の歌詞の内容は次のような展開をします。
① | 地下鉄の駅の人の流れなかで「私」は昔の知人の女性に呼び止められる。 | |
② | 知人女性はかつての「恋敵」で、その人さえ来なかったら彼とは今でも続いていたはずと、「私」は今でもその女性を憎んでいる。 | |
③ | しかしその女性は「私」が彼と別れた後に、彼と知り合いになった。「私」はそのことを知っていたが、憎まずにはいられなかった。 | |
④ | 知人女性は、今の彼=夫を紹介する。その男性を見て「私」は愕然とする。 |
①から②は中島さんの詩によくある展開で、ここまでは言わば「普通」です。しかし③で「えっ」と思ってしまうのですね。さらに④で、どんでん返しのような展開になる。このあとに続く詩を最後まで引用すると、次の通りです。
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初めから聴いていると「いったい、どこへ行き着くのだろう?」と思ってしまいますが、最後は
許せないのは 許せなかったのは あの日あいつを惚れさせるさえできなかった 自分のことだった |
という結末なのです。「そこへ行くのか」という感じですが、このエンディングは非常に中島作品らしい感じもする。
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A1991『歌でしか言えない』 |
言葉の重視宣言4 : 読む言葉
中島さんの詩には、時として歌を聴いただけでは分からない言葉、日常的にはまず使わない言葉が出てきます。典型的な例を2つあげます。
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「とろばこ」は一般的な言葉ではないので、聴いても意味がとれません。歌詞を読んで瀞箱という字を見てもわからない。「とろばこ」を調べてみて「魚などを入れるために水産業者が使う箱」だとわかり、さらに瀞が当て字らしいともわかる。
文字として書かれた詩や詩集の本の詩なら、こういうプロセスで理解をするのは大いにあり得ることだと思います。つまりこの詩は「字として読まれることを前提としている」ことになります。少なくとも 《白鳥の歌が聴こえる》 のこの部分はそうです。
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A1992『EAST |
しかし恥ずかしながら、この綿毛を「柳絮」と言うのを中島さんの詩で初めて知りました。中島ファンは多いと思いますが、《EAST ASIA》を最初に耳で聴いたときに "りゅうじょ" の意味が分かった方は少ないのではないでしょうか。この詩も「字として読まれることを前提としている」と思います。
中島さんの詩の言葉は、その言葉であることが必須というのが多い。「瀞箱」も「柳絮」も、彼女は是非その言葉を使いたかったのだと思います。であれば、楽曲の "詞" を "詩" として取り出して鑑賞する意義は十分にあると思います。
「象徴詩」「無曲歌 = 詩の朗読」「短篇小説」「読む言葉」と書いて来ましたが、これらはいずれも「言葉を非常に重視します、という宣言」だと思えます。「短篇小説」にしても、そもそも中島さんは小説を書いているので違和感はありません。2000年に出された29枚目のオリジナル・アルバムのタイトルは、ずばり『短篇集』です。
中島作品における詩について書こうとしたのですが、「言葉だけの詩として扱うことの妥当性」の話だけになってしまいました。これからが本論のはずですが、長くなったので、また次の機会にします。