「民族伝統の神々の破壊」はローマやコンスタンチノープルという首都だけでなく、ローマ帝国全域で行われました。さらにその後のヨーロッパの歴史をみると、ローマ帝国の領域の周辺へと「民族伝統の神々の破壊活動」が拡大していきます。 |
と書きました。今回はその補足です。「民族伝統の神々の破壊活動」はその後も延々と続けられ、ヨーロッパの外へと波及していきました。そして16世紀にその波は日本にまでやってきます。つまりキリシタン大名といわれる人たちの一部は、領内の寺院・神社を破壊しました。高山 右近(高槻、明石)がそうですし、大村 純忠(肥前)は寺院や神社の破壊だけでなく領内の墓所まで壊したはずです。しかし日本におけるこのような動きはごく一部であり、その後の幕府の強力なキリシタン禁制でなくなりました。逆に教会が破壊され、多数の殉教者を出すことになったわけです。
しかしアメリカ大陸へと波及した「民族伝統の神々の破壊活動」は、日本とは様相が違ったのです。
マヤ文明
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チチェン・イッツァ遺跡 マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神)を祀る。春分と秋分の日に太陽が沈む時、遺跡は真西から照らされ、階段の西側に蛇が身をくねらせた姿が現れる。 |
そして16世紀になって、この地にスペイン人がやってきたのです。
抹殺されたマヤ文明
2010年11月9日の、NHK BS hi-vison「プレミアム8 世界史発掘 時空タイムズ 古代マヤ文明」で、マヤ文字の解読の歴史と最新の研究成果が紹介されました。マヤ文明は南北アメリカ大陸で発達した文明の中では唯一、文字を持つ文明です。同じ中米のアステカ文明や南米のインカ文明には文字がありません。その意味でマヤ文字の解読は、欧米人が到達する以前の新大陸の様子を知る意味で極めて重要です。
この番組の中で、2008年にアメリカのNOVAプロダクションが制作したドキュメンターが放映されました。このドキュメンタリーはマヤ文字の解読の歴史を詳細にたどり、解読の成果として分かってきたマヤの文化を解説したものです。その前半でマヤ文字の解読が困難な理由、つまりマヤ文字が抹殺された経緯が語られています。実はマヤ文字だけでなく、マヤの伝統や宗教を含む文明そのものが地上から抹殺されたのです。2人の学者がその経緯を語っています。NPO法人「マヤ研究所」の所長、ジョージ・スチュアートと、著名なマヤ学者であるイェール大学のマイケル・コウ教授です。その部分を番組から再録します。
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マヤ文字の解読
マヤ文字を書くこと読むことは禁止され、文書は町の広場で焼却処分。文字を書くと処刑される。言葉は話言葉だけが頼りで、物語は口伝で伝えるしかない・・・・・・。レイ・ブラッドベリの名作「華氏451度」(1953) を連想させる話ですが、これは小説ではなく歴史上の実話なのです。これは全くの想像ですが、おそらく「華氏451度」のように、密かに隠されたマヤ文字文書をもとに文字を伝承する秘密裏の行動が行われたのではないでしょうか。見つかると処刑されるので「命懸け」ですが、民族の誇りを伝えるという目的なら人間はその程度のことはやるものです。しかし仮にそうだとしても、マヤ文字は途絶えてしまったのです。
「かろうじて焼け残った書物、ないしは書物の一部は4点だけでした」とあります。番組ではこのうちのドレスデン絵文書(ドレスデン国立博物館)を紹介していました。この絵文書を含め文書はわずかに4点しか残らなかったのです(ドレスデンの他に、パリ、マドリード、グロリアの各絵文書が残っている)。
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ドレスデン絵文書 [site : Wikipedia] |
学者たちの努力の結果、マヤ文字の解読は20世紀になってから急速に進展し、マヤの1500年の歴史が次第に明らかになってきました。神話、天体観測と暦(極めて精密なことで有名)、数の概念、宇宙観などです。また農業や当時の暮らしなど、大航海時代以前のアメリカの様子も解明が進んできました。現代では約4万種と言われるマヤ文字の8割が「読める」ようになったようです。しかし文書が焼却され、そこに書かれていたことが消滅してしまったことには変わりがありません。マヤ文字が読めるようになっても、読む対象が限られているのです。
文明の存在証明
一般に現代人が「古代文明」の存在を認識するのは何をもとにしているのでしょうか。一つは「石で作られた建造物の遺跡」です。ストーンヘンジ、エジプトのピラミッド、ローマのコロッセオやパンテオン、地中海世界一帯に残る水道橋、万里の長城、マチュピチュの「空中都市」などを見ると、その時代に文明が存在したことが誰の目にも明らかです。石で作られた建造物は後世に残りやすいので「文明の存在証明」には非常に有利です。
しかし「石で作られた建造物の遺跡」以上に文明の証明となるのは「文書」です。紀元前後の古代ローマや古代中国は文書が大量に残りそれが継承されているので、文明の様子が手に取るように分かるのです。遺跡がほとんどなくても「文書」が残っていてそれが解読できれば文明の様子は明らかになります。古代メソポタミア文明の遺跡はほとんど現存しませんが、大量に発掘された粘土板に書かれた楔形文字の解読が進んで、文明の様子がはっきりしてきました。
ある日本の歴史学者の発言を読んだことがあるのですが「鎌倉幕府の存在を考古学的発掘から証明することはできない、鎌倉に幕府があったことを証明できるのは文書記録」だそうです。なるほど。日本では「石で作られた建造物の遺跡」はほとんどないし、発掘物だけから鎌倉幕府の存在を証明するのは困難でしょう。
そしてアメリカ大陸に目を向けると、南米のインカの数々の遺跡やマチュピチュの「空中都市」の存在は、そこに高度な文明が存在したことの明かしです。しかしインカは文字を持っていません。その文明の内容は非常に解明しにくいのです。
では中米のマヤはどうでしょうか。現在残っているチチェン・イッツァ遺跡だけを見ても高度な文明の発達を推測できます。そしてマヤ文明は文字を持つ文明でした。もしマヤの文書が全て残っていたのなら、文字は比較的短期間に解読され、この文明の全貌が容易に明らかになったはずです。暗号解読と同じで、文字サンプルは多ければ多いほどよい。しかしそのマヤ文字の文書がたった4点を残して地上から姿を消してしまった。
マヤ文明は、16世紀に文明そのものが地上から消滅したのですが、それだけでなく文字記録が抹殺されることで歴史からも消滅してしまったのです。
文明の消滅
文化は文字がなくても発展できるし、継承できます。このような社会では口伝で継承する技術が発達するはずだし、特定分野の口伝専門家が育成されたり、さらにそれが代々引き継がれたりするはずです。南米のインカは文字なしで文明を築きました。しかし文字を前提とする文化が文字を禁止されると文化の継承は不可能でしょうね。「文字なし文化」や「別の文字文化」に移行するのが一朝一夕に行くとは思えない。それまで継承してきたものはほとんど全て失われていくでしょう。
文字を抹殺するということは、それまであった文化を全て抹殺し、しかも歴史上からも抹殺するということなのです。今からすると信じられないような「残虐行為」なのですが、400年前には実はこういうことが平気で行われていたのです。これはどう考えるべきなのでしょうか。
マヤ人は悲惨な目にあった |
というのは誰しも思うことだと思います。
当時の、アメリカに渡ったスペイン人はひどいことをした |
というのも妥当でしょう。マヤ文明を抹殺したのはそこにやってきたスペイン人、中でも強い宗教的使命感を持った修道士のディエゴ・デ・ランダです。しかしメキシコ高原部のアステカ王国や南米のインカ帝国で別のスペイン人の一団が何をしたかを思い出せば、異種文明をせっせと抹殺して金銀財宝を略奪していたのが当時16世紀のスペインの「行動パターン」でした。
ディエゴ・デ・ランダについて私はよく知らないのですが、どういう人物だったのでしょうか。
のどちらに近いのでしょうか。マヤ文明の抹殺の顛末からすると①だと思ってしまいますが、②かもしれません。日本で寺院・神社を打ち壊し僧侶・神官を迫害した高山右近は明らかに②です。彼を慕ってキリスト教に入信した人も多かったようです。 |
しかしここで思うのですが、16世紀のスペイン人だけを「悪者」にするのは当たらないのではないか。程度と内容の差はありますが、マヤで起こったことと本質的に同じことが、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ人の手によってなされたのではないかと思うのです。
ヨーロッパの神々
No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後でふれたように、12世紀から13世紀にかけてヴェンド十字軍などの十字軍が組織され、北方ヨーロッパ「異教徒征伐」が繰り返えされました。この結果ゲルマン族やスラヴ族が持っていたその土地固有の宗教とそれに関連していた文化は衰退していきます。
そして十字軍を問題にする以前に4世紀末のローマ帝国の首都で、16世紀のマヤで起こったことと本質的に同じことが起こったのではないでしょうか。No.25で「ローマ人の物語」から引用した「神殿、神の像、皇帝の像、家庭の神棚などの破壊と宗教行事の廃止と禁止」そして No.27 で引用した「図書館の閉鎖」がまさにそうだと思うのです。スペイン人がマヤ文化を破壊した時には文書までもが焼却されました。しかしローマではマヤとは違ってラテン語の文書や文字は残りました。「幸いなことに」破壊したのがローマ人だったので、自分たちの言葉(文字)までは抹殺しようがなかった。
「マヤ人は悲惨な目にあった」わけですが、同じ理屈で「ローマ人も悲惨な目にあった」し、その後に「ヨーロッパ人も悲惨な目にあった」のだと思います。悲惨の程度は違いますが・・・・・・。
しかしヨーロッパにおいてはマヤとは違って、固有文化が全く消滅したわけではありません。ギリシャ・ローマ・ゲルマン・スラヴの神話は伝承され続けています。No.14 - No.17 の「ニーベルングの指環」はそういった神話を「ネタ」にしているのでした。また紀元前からヨーロッパにあったケルト文化は、近代以降それを発掘・保存し、また伝承しようという動きが広まります。No.8「リスト:ノルマの回想」でふれたベッリーニのオペラ「ノルマ」の主人公はケルトの巫女であり、オペラのストーリーはケルト人社会とローマ軍の葛藤を描いているわけですが、これもケルトに光をあてようという大きな動きの中で出てきた一つの芸術作品だと思います。
そしてヨーロッパの固有文化を強く感じさせる典型的な例が、No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところにも書いた「レッチェンタールの謝肉祭」です。
(次回に続く)