No.13「バベットの晩餐会(2)」の「海亀のスープ」のところで「海亀は鯨とともに絶滅危惧種であり、そのスープを味わった人はいないはず」と書きました。そこでも触れたように、大型海洋生物の絶滅危惧種として海亀と並んで代表的なのが鯨です。そして鯨はその保護のあり方について世界で論争になっていて、刑事事件まで起こっています。そこで「鯨と人間の関係」について振り返ってみたいと思います。
絶滅危惧種としての鯨
クジラ類は国際自然保護連合(IUCN)のレッド・リストにおいて7つの種が「絶滅の危機」ないしは「脆弱」となっています。また、絶滅の恐れのある野生動植物の国際取引を規制するワシントン条約では、クジラ類の全種が付属書①(国際商取引禁止)か、ないしは付属書②(国際商取引には輸出国の許可証が必要)に記載されています。
国際捕鯨委員会(IWC)は、商業捕鯨のモラトリアム(一時停止)を1982年に決議しました。さらにIWCにおいては、反捕鯨国と捕鯨容認国がクジラの保護のありかたをめぐって長期間の論争をしています。このようにクジラ(クジラ目という意味ではイルカを含む)は、その種としての保護が国際的な問題になっているというのが、まず背景としてあります。
反捕鯨テロ
捕鯨に関する「争い」で最近注目を集めたのは、シー・シェパードを名乗るアメリカの団体の船が、2010年1月から2月にかけて、オーストラリア近くの公海上で日本の捕鯨監視船に突っ込もうとし、薬物を投げつけたり、不法進入をしたという事件です。これはもちろん犯罪であり、容疑者は逮捕されて起訴されました。この団体は過去にも捕鯨船の爆破などの数々の犯罪行為を繰り返しています。幸い死者は出ていないようですが、明らかなテロ行為です。これが「売名行為ではない」という前提だとして、どういう風に考えたらよいのでしょうか。
この団体は「自分たちは正義の徒」と思っているのでしょう。反捕鯨国の代表のつもりかもしれませんが、捕鯨反対運動にとっては明らかな「逆効果」です。まじめに運動をしている人は顔をしかめていると思います。彼らの信条は一言で言うと「動物愛護」もっと大きくは「自然保護」ということだと思いますが、やっていることは「動物愛護テロ」です。そして以前から思っているのですが、この種の「動物愛護テロ」という不可解な現象が他にも起こっている(起こった)ことです。
1990年代の英国で「動物愛護テロ」が頻発したことがありました。1995年3月16日の毎日新聞に、英国特派員の記事記事が載っています。
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・動物実験の研究所の襲撃
・豚飼育業者の家に放火
・動物を運ぶフェリー会社に手紙爆弾を送る
などであり、
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もっと「軽い」過激行動としては、毛皮のコートを着ている芸能人にペンキを投げつけたという事件が、以前欧州であったと記憶しています。国際捕鯨委員会(IWC)の総会で日本の代表が類似の被害を受けたこともありました。これも動物愛護テロと思想は同じだと思います。
普通、テロリズムというのは、
① | 宗教的信条 | |
② | 政治的信条 | |
③ | (ゆがんだ)愛国心の発露 | |
④ | 多大な被害を受け続けた者の、加害者集団への反撃 |
⑤ | 動物愛護、動物の権利の尊重 |
しかし、毛皮のコートを着た芸能人にペンキを投げつけるという行為は、動物愛護を装っていながら、動物愛護の精神とは対極にある行動です。そして「正義の名のもと、自己の主張に反するものを反正義として排除し、自分の信じる正義に凝り固まる」という思考様式こそ、動物を乱獲して絶滅危惧種に追いこんだ行動の基礎となっている思考と全く同じだと思います。動物愛護テロは動物絶滅行為と表裏一体です。
国際捕鯨委員会(IWC)での議論
しかしシー・シェパードを名乗る団体、およびそれに寄付や援助をしている人たちは反捕鯨運動の中では極く一部です。大多数の反捕鯨派の人たちは「まじめに」捕鯨禁止運動をしています。
この反捕鯨の国が多数を占めたため、国際捕鯨委員会(IWC)は、1982年に商業捕鯨のモラトリアム(一時停止)を決議しました。現在、国際捕鯨条約で許されている捕鯨は、調査捕鯨と、原住民生存捕鯨だけであり、日本の調査捕鯨船の活動もこの条約規定に従った行動です。
この「商業捕鯨モラトリアム」を招いた直接の要因は、20世紀の南氷洋における鯨の乱獲です。これはイギリス、ノルウェーが先鞭をつけ、ソ連、日本が遅れて参加しました。捕鯨船の舳先につけた捕鯨砲でロープ(銛綱)のついた銛を鯨に発射するという方法(ノルウェー式捕鯨)で、この方法だと死んだら海底に沈んでしまうナガス鯨やシロナガス鯨も捕獲できます。
第二次大戦後「捕鯨オリンピック」というのがありました。各国の鯨の捕獲総合計数に枠を設定し、国ごとの捕獲数に制限は設けないという「早いもの勝ち」方式です。これは必然的に国と国との競争になります。日本もこの時代に捕鯨量を延ばし、1959-60年の漁期には世界1位になりました。こういう事態は怖いですね。「世界1位」という言葉の響きは、その内容がどうであれ人々の心をくすぐります。「鯨の保護が大事」という意見があったとしても、その声はかき消されてしまうでしょう。
日本もその一員であった捕鯨国の鯨の乱獲は資源の枯渇を招きました。かつての捕鯨国は大いに反省の必要があるでしょう。現在の商業捕鯨モラトリアムと科学的調査捕鯨への限定は当然の措置だと考えられます。
しかし報道される現在までのIWCにおける論争をみると、反捕鯨国と捕鯨容認国があり、その2つの陣営で主張が完全にスレ違っているようです。
反捕鯨国は、アメリカ、およびイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国(ノルウェー、アイスランドを除く)です。反捕鯨国の主張は、鯨の数が増えているかどうかにかかわらず「鯨を捕るのをやめよう」という「クジラ愛護論」や「クジラの権利論」が根幹にあるようです。捕鯨そのものが反倫理的であるという論理です。反捕鯨国にとって鯨の保護は地球環境保護の象徴ともなっているようです。
一方、ノルウェー、日本、アイスランドなどの捕鯨容認国は、人間が自制し、適切な捕鯨量の範囲で鯨を捕獲しよう、それには科学的態度で資源量を調査し、証拠をもとに判断していこうという意見です。
この2つの意見は大きくスレ違っています。捕鯨容認国は「論より証拠」という考え方ですが、反捕鯨国は「証拠より論」というわけです。
捕鯨の歴史を振り返る
ここで捕鯨の歴史を振り返ってみたいと思います。捕鯨の歴史をみると、鯨を絶滅危惧種に追いこんだのは、アメリカ・イギリスを中心とする欧米の(現在の)反捕鯨国であり、このことは事実として十分に認識しておかないといけないと思うからです。
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世界史の視点でみて「鯨がどのように絶滅してきたか」をコンパクトにまとめた記述があります。「環境と文明の世界史」(洋泉社新書 2001)
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捕鯨の歴史の観点から3点補足しますと、北大西洋の捕鯨では、上に書かれているスペインの北のビスケー湾の次に、北極海のスピッツベルゲン島(ノルウェーの北方)を基地とする捕鯨が盛んになりました。この捕鯨を推進したのはイギリスとオランダです。
またアメリカの捕鯨は東海岸のニューイングランド地方で盛んになりますが、特にボストン近郊のケープ・コッドの南の沖合に浮かぶ島、ナンタケット島が有名です。ここを起点にアメリカの遠洋捕鯨産業が発展しました。ハーマン・メルヴィルの「白鯨」はアメリカ文学史上屈指の傑作ですが、エイハブ船長率いる捕鯨船・ピークォド号はこのナンタケット島から出航しています。捕鯨基地の中心はその後、アメカ本土のニューベッドフォード(これもボストン近郊)に移ります。
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米国 マサチューセッツ州 東部 ナンタケット島やニューベッドフォードが捕鯨の一大基地となった。ロードアイランド州のニューポートはぺリー提督の出身地である。 |
さらにペリーはなぜ来日したのか、日本史の教科書を思い出す必要があります。ペリー来航の目的は日本の開国でしたが、その背景となった最重要事項はアメリカ捕鯨船の補給基地(薪、水、食料)の確保でした。それほど日本近海ではアメリカの捕鯨船が鯨をとっていた、ということなのです。
ジョン万次郎とアメリカ捕鯨
太平洋における捕鯨で思い出すのは、ジョン万次郎(中浜万次郎)の漂流の過程です。ジョン万次郎の軌跡をまとめると次のようになります。
◆ | 1827年、土佐に生まれる。 |
◆ | 1841年(14才)足摺岬の沖で漁をしていたときに難破。10日間漂流して鳥島に漂着する。そこで143日間生き延びる。 |
◆ | 米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受ける。 |
◆ | 1843年(16才)捕鯨船は南アメリカ南端のホーン岬(ケープ・ホーン)を経由し、アメリカのマサチューセッツ州、ニューベッドフォードに帰港する。船長は出身地のフェアヘーヴン(ニューベッドフォードの隣町)へ万次郎をつれていき、教育をうけさせる。 |
◆ | 1846年(19才)万次郎は捕鯨船・フランクリン号に航海士として乗船、大西洋から喜望峰をまわりインド洋、太平洋と捕鯨航海をする。 |
◆ | 1851年(24才)ハワイ経由で、沖縄本島に上陸。土佐に帰還する。 |
◆ | 1852年(25才)土佐藩の「士分」にとりたてられる。 |
◆ | 1853年(26才)ペリー提督が来航。 |
◆ | 1860年(33才)日米修好通商条約の批准使節団の一人として、咸臨丸に乗り込み米国を訪問。 |
ジョン万次郎は鳥島でアメリカの捕鯨船に助けられ、かつ捕鯨船の乗組員として太平洋にきていたわけです。こういうことが起きてもおかしくないほど、当時の太平洋にはアメリカの捕鯨船がいたのです。
太平洋における捕鯨と日本
「鯨と捕鯨の文化史」(森田 勝昭 著。名古屋大学出版会。1994年)

上が南北アメリカで、下の方にフィリピン、ニューギニア、オーストラリアがあるという図です。アメリカのニューイングランドを出航した捕鯨船は、南アメリカ大陸南端のホーン岬(ケープ・ホーン)を回り、南アメリカに沿って北上(地図では左)します。ガラパゴス諸島から西(地図では下)に航路をとり、太平洋の島々を経由しながら航海して捕鯨場へいくルートが描かれています。地図において左下に日本列島が半分だけ描かれています。日本列島近海はアメリカの捕鯨船にとって、太平洋捕鯨における最終ゴールといった感じです。「鯨と捕鯨の文化史」にはこう書かれています。
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アメリカのニューイングランドからは年間100隻以上の捕鯨船が日本近海にむけて出航したとあります。ここでの「日本近海」とはジャパン・グラウンドと当時呼ばれた海域で、日本沿岸から小笠原諸島付近までを含む広大な海域です。航海年数を4年程度とすると、アメリカ船だけでも300~400隻の捕鯨船がこの海域に常時いたということになります。当然、日本との接触が出てきます。ジョン万次郎以外にも漂流漁民がアメリカ捕鯨船に救助された例はあるし、また捕鯨船が日本沿岸に現れて薪の購入を要求したり、捕鯨船と日本サイドの撃ち合いになったり(松前藩)、乗組員による食料の強奪事件も発生しました。日本の漁民の中には捕鯨船と物資の「密輸」をやる者さえあったようです。もちろん幕府の禁令違反です。
こういうことが起こるほど、日本近海で欧米(特にアメリカ・イギリス)による捕鯨は盛んだった。ペリー提督が浦賀に来航するのは必然だったという気がします。ペリーが浦賀に来たのを「黒船来航」と言っていますが、そもそもクロフネというのは当時の日本から見た欧米の捕鯨船だったわけです。
「白鯨」: ピークォド号はどこに沈んだか
日本近海での捕鯨の状況を、ハーマン・メルヴィルが著した世界文学史上の傑作「白鯨」(1851)
「白鯨」はもちろん小説=フィクションですが、単なる小説ではありません。それは小説であると同時に、捕鯨技術書であり、鯨の生態学書であり、捕鯨船乗組員の船上生活を描いたドキュメンタリーでもあり、各種文献の知識を総動員した「総合捕鯨文学」とも言える本です。メルヴィル自身も捕鯨船の乗組員の経験があります。当然この「小説」は19世紀前半のアメリカ・ニューイングランド地方の捕鯨の様子を正確に反映しているはずです。この「白鯨」に日本がいろいろ出てくるのです。小説の進行にそって順に記述すると次のようになります。訳文はいずれも、阿部 知二 訳「白鯨」(岩波文庫 1956初版 現在は絶版)からとりました。



 捕鯨者教会堂  |
「白鯨」の物語の語り手であるイシュメルは、ニューベッドフォードの「捕鯨者教会堂」を訪れます。教壇の両側の壁には数個の大理石の碑面があり、その一つにはこう刻まれています。以下、太字は原文にはありません。
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なお「抹香鯨」とはマッコウ鯨です。
 ピークォド号  |
「白鯨」の主役は、ピークォド号という名の捕鯨帆船です。イシュメルがピークォド号を初めて見たとき、船の描写の中に次のような箇所があります。
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◆ | 颶風(ぐふう) 強く激しい風。台風のことを熱帯颶風といった古い例があります。 | |
◆ | コローニュの古き三王 コローニュ(ドイツのケルン)の大聖堂の伽藍に、キリスト誕生のときに捧げものをした東方の三博士の骨が葬られているという伝説があるようです。わざわざ「東方の三博士の伝説がありゴシック様式の尖塔をもつ教会(ケルン大聖堂)」を持ち出しているのは、ピークォド号の帆柱(マスト)が3本だからです。 | |
◆ | 突兀(とつこつ) 高くそびえたり、突き出ているさま |
もちろんこの小説はフィクションなのですが「えっ」と思うようなことが書かれていますね。ピークォド号はかつて日本の海岸に近づき、木を伐採し、それをマストにしたというのです。もちろん当時の日本は鎖国中です。それは当時のニューイングランドの捕鯨業の人たちにもよく知られていました。「白鯨」の中にも後で出てきます。
マスト用に木を「日本の海岸のどこかで代伐」したのだから、マストが折れたのは日本の近くのはずです。ピークォド号のオーナーであり、引退した老船長であるピーレグとビルダドの二人の会話にそれが出てきます。
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歴史的事実として「捕鯨船が日本沿岸に現れて薪の購入を要求する」というようなことがありました。「日本の海岸に近づき、木を伐採し、それをマストにした」という小説としての設定も、非現実的なものでは決してないと思います。
 エイハブ船長  |
ピークォド号のエイハブ船長は片脚がなく、鯨の骨で作った義足をつけています。彼はマッコウ鯨を捕獲しようとして足を鯨に食いちぎられてしまったのです。この鯨が「白鯨 = モービー・ディック」です。では、彼はどこで片脚をなくしたのか。
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とあります。
 太平洋への航海  |
ピークォド号はナンタケットを出航(1851年)し、
◆ | アゾレス群島沖(スペイン沖) | |
◆ | ヴェルデ岬沖(西アフリカ、セネガル沖) | |
◆ | リオ・デ・ラ・プラタ河口のプレイト海 | |
◆ | セント・ヘレナ島南方のカロル海(アフリカ、アンゴラ沖) | |
◆ | 喜望峰 | |
◆ | 喜望峰の南東、クロゼット群島沖(インド洋) | |
◆ | ジャワ島 |
 スンダ海峡  |
スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を抜けるときの記述です。
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 日本沖の捕鯨場の発見経緯  |
「白鯨」には、日本沖の捕鯨場の発見の経緯も書かれています。発見の航海を行ったのは、ロンドンの捕鯨業、エンダービー商会です。
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前述の「鯨と捕鯨の文化史」に「19世紀前半に日本近海が世界でも有数の鯨資源の宝庫であることが判明し」と書かれてますが、その詳しい説明に相当します。
 日本近海の捕鯨場  |
太平洋にもうすぐ出るという時、エイハブ船長は海図をひろげて航海の検討をしています。一等航海士のスターバックが船長室にはいった時の描写です。
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日本の地名らしきものが出てきますが、原文は
the long eastern coasts of the Japanese islands - Niphon, Matsmai, Sikoke. |
 太平洋に入る  |
バシー群島のそばをすり抜けて、船は太平洋にはいります。その太平洋がどういう風に感じられていたのか、その文章です。
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 日本海域  |
ピークォド号は日本沿岸で捕鯨を開始します。
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 赤道海域  |
赤道海域での漁期が近づき、ピークォド号はそちらに向かいます。そのとき日本海域を回想する文章。
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 妄想  |
モービー・ディックを殺すことに狂気ともいえる異様な執念を燃やすエイハブ船長をみて、一等航海士のスターバックは、このままでは乗組員全員が破滅する、いっそ船長を銃で撃ってしまおうかと思います。
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 対決  |
赤道海域においてピークオォド号は「白鯨を見た」という船に出会います。エイハブ船長はその海域に急行します。
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 ピークォド号の最後  |
エイハブはモービー・ディックを発見し、何回か追跡し、そしてついには銛で対決します。しかし戦いに破れ、ピークォド号は三十数人の乗組員もろとも海に沈んでしまいます。かろうじて生き残ったイシュメルの回想という形をとっているのが、小説「白鯨」です。
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ピークォド号はどこに沈んだのか。それはエイバブ船長が「痛ましい傷をこうむったところの緯度経度の真近く(第130章)」です。第28章の記述から、そこは「日本の沖」だということになります。もちろんこれは日本列島から見た沖、たとえば鹿島灘というようなところではありません。ピークォド号は日本沿岸域で捕鯨をしたあと赤道海域に向かったので、赤道に近いどこかです。しかしそこはアメリカのニューイングランド地方からみれば日本の沖です。それはそうでしょう。スターバックが言うように一番近い国は日本なのだから。
「白鯨」は小説=フィクションです。この通りのことが実際にあったわけではありません。しかしメルヴィルは当時の捕鯨船の綿密な調査と膨大な知識のもとにこの「同時代小説」を書いています。一隻の捕鯨船の太平洋での操業の経緯、様子の「典型」が表現されているはずです。そしてこのような捕鯨船が年間100隻、ニューイングランドの港を出航していたのが、当時の状況なのです。
「白鯨」: 日本開国
「白鯨」にはまた日本の開国のについての驚くような記述があります。イシュメルの述懐です。
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非常に正確です。まるで1853年のペリー来航とその後の日本の対応を予言しているかのような文章です(小説の発表は1851年)。ハーマン・メルヴィルはペリーの日本渡航計画を知っていたのでしょうか。「ペリー来航の目的は捕鯨のための基地を確保することだった」というのは歴史を全部は言い表していないようです。「日本を開国させたのはアメリカの捕鯨産業だった」というのが本質に近いのかもしれません。
これに関係してですが、どうも日本史の記述は「内向き」であって、幕末の情勢と米国の太平洋捕鯨の関係を記述しませんね。たとえば鹿島灘とその周辺は捕鯨の大漁場でした。「白鯨」に「日本海域を深く深く、その心胸部まで進み入ったところで、ピークォド号は漁獲で大騒ぎだった。」とありますが、それは鹿島灘を想定して書かれた可能性も大いにあると思います。鹿島灘に最も近い藩は水戸藩です。そして水戸藩は早くから捕鯨船と遭遇していた藩です。水戸藩は、非常に強い危機感を感じていたのではないでしょうか。その藩士が「尊王攘夷」を掲げて、大老・井伊直弼を暗殺するというテロ事件(桜田門外の変)を起こした。桜田門外の変と捕鯨はつながってるのではないかと思います。こういうあたりをもっと掘り起こすと、歴史の理解は進むと思います。
「白鯨」 : 捕鯨とクエーカー教徒
本題からはずれますが、「白鯨」にはクエーカー教についての種々の記述があります。阿部知二訳ではクエーカー教徒は「震教徒」と訳されています。
まず、小説の語り手であるイシュメルはピークォド号の乗組員に応募しようと、老船長・ピーレグに会います。ピークォド号のオーナーの一人です。その船長の風貌の描写です。
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訳者の阿部知二氏は「震教徒」について以下の注釈をつけています。
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ピークォド号の別のオーナーであり、生粋のクエーカー教徒であるビルダド船長の描写のところに、クエーカー教徒と捕鯨の関係が説明されています。
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ピークォド号の乗組員のうち、一等航海士のスターバックは明確にクエーカー教徒であると書かれています。
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「白鯨」は歴史書ではないのでメルヴィルの記述を事実としてうのみにはできませんが、ナンタケット島の捕鯨産業がクエーカー教徒たちのコミュニティよって発展したことは歴史的事実のようです。
注釈にあるジョージ・フォックスがクエーカー教をはじめたのは、1650年ごろのイングランドです。そのイングランドに生まれたメアリー・ダイアーは1652年にクエーカー教に入信し、1657年にアメリカのニューイングランドに渡って布教し、そして1660年に絞首刑になりました。メアリー・ダイアーはいま、信教の自由の番人であるかのように、ボストンのフリーダム・トレイルを見守っています(No.6「メアリー・ダイアー」参照)。
イングランドのクエーカー教徒も、阿部知二氏の注釈にあるように迫害をうけ、信者の一部はアメリカのニューイングランドに渡りました。アメリカのクエーカー教徒たちは迫害を乗り越え、ナンタケット島にはコミュニティを作り、そして捕鯨産業を発展させ、世界の海を(捕鯨という意味で)制覇したわけです。クエーカー教の創成期におけるメアリー・ダイアーのボストンでの死も無駄ではなかったということでしょう。
No.18「ブルーの世界」とNo.19「ベラスケスの怖い絵」で奴隷の話を書いたので、一言だけ補足しますと、欧米において奴隷解放を最も早くから主張していたのはクエーカー教徒だったはずです。確か17世紀後半のクエーカー教が始まったすぐ後からそういう主張をしていた(リンカーンの奴隷解放宣言は19世紀、1863年)。奴隷はキリスト教精神に反するというわけですが、別に聖書に奴隷はいけないとは書いていないはずだし、ヨーロッパにキリスト教が広まったあとも、非キリスト教徒を奴隷にする形で奴隷制度は続いていました。その意味でクエーカー教徒は(当時の)ラディカルなプロテスタントだったわけであり、こういう人たちが(当時としては)異端視されるのは分かるような気がします。
鯨油をとるための捕鯨
捕鯨の話に戻ります。
欧米諸国の捕鯨の歴史を見たのですが、イギリス・オランダに始まる「自国の沿岸水域でなく、鯨の生息する遙か離れた海域で行われた近代捕鯨」(「鯨と捕鯨の文化史」)が盛んになった大きな要因は捕鯨の目的が鯨油をとることだったからです。鯨肉が目的なら、冷凍設備を完備した船でないと遠洋捕鯨はできません。それが可能になるのは20世紀です。しかし鯨油をとるのが目的なら、鯨を捕獲し、脂肪組織を取り出し、釜で煮立てて鯨油とり、肉や骨は海に捨てる、これを次々と繰り返していけば、そのうち船は鯨油を入れた樽で満杯になります。遠洋の捕鯨場を次々と航海して4年後に母港に帰れば大きな利益が得られる。このあたりは、鯨肉が重要な目的だった日本の明治以前の沿岸捕鯨、および冷凍設備を備えた20世紀の遠洋捕鯨と違うところです。
19世紀以前において鯨油は欧米において重要なものでした。鯨油はランプの灯油として使われ、たとえばロンドンの街灯の明かりは鯨油です。その他、皮革や羊毛の洗浄材、石鹸、蝋燭、塗料にと、広範囲に使われました。またマッコウ鯨の頭部には平均1トンの「脳油(スパルマセティ)」が蓄えられています。これは高品質の油であり、そのまま機械の潤滑油として使えました。普通の鯨油の3~4倍の値段がついたようです。
鯨油以外の鯨の利用としては、いわゆる「鯨ヒゲ」がありました。ヒゲクジラ類は上顎に巨大な櫛のような「鯨ヒゲ」があり、これでオキアミや魚などを海水から濾して摂取します。このヒゲは女性用のコルセットやスカートを広げる骨組み、傘の骨などに使われました。軽くて弾力性に富み、曲げやすいので重宝されたのです。
しかし、以上の利用用途からすぐに分かるように、鯨油や鯨ヒゲが目的の捕鯨は、19世紀後半からその価値が激減していきました。言うまでもなく、石油、プラスチック、鋼鉄製品の発達によるものです。近代の科学・技術は、鯨利用製品に代わるものを次々と生み出していったのです。
ではヨーロッパにおいては鯨を食用とはしなかったのでしょうか。実はヨーロッパ諸国も鯨を食べていた時代と地域があったのです。前述の森田さんの「鯨と捕鯨の文化史」には次のように書かれています。
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近代において食料獲得のための捕鯨が発達しなかった理由は、鯨肉を持ち帰れる距離で捕獲可能な鯨が、近代になったときには既に少なくなっていたから、ないしは絶滅していたからではないでしょうか。さらに遠洋捕鯨を大規模に発達させたオランダとイギリス、およびその後のアメリカに鯨を食用にする伝統がなかったので、鯨油獲得に邁進したと考えられます。
しかしながら、これは補足ですが、戦争などによって食料不足になったときは、欧米でも鯨肉を食べることがあったようです。慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏の本には次のようにあります。
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以上の欧米の遠洋捕鯨の歴史全体を見ると「反捕鯨」という運動は「利用価値がなくなったから捕鯨禁止」というようにも見えます。もちろん反捕鯨運動をしている人たちはそうではなく、まじめに鯨の保護を考えているのだと思います。しかし歴史的に事実だけを見ると、少なくとも「外見上は」そう見えるのです。
一方、利用価値という議論をするのなら、鯨資源が復活していることを根拠に「管理された捕鯨の再開」を主張する立場の人も、現時点における鯨の「利用価値」をよく考える必要があるでしょう。特に、日本を含む各国で昔から行われてきた沿岸捕鯨や原住民生存捕鯨ではなく、遠い海まで繰り出していく遠洋捕鯨の現時点での価値です。
人間と鯨
20世紀前半まで、現在の「反捕鯨国」の先頭にたっている欧米諸国は鯨を乱獲しました(日本も含めて)。それが20世紀後半、特に1970年代以降になって「鯨を一切殺すな」というように180度転換した。歴史的経緯を振り返ると、現在の反捕鯨国にとっての鯨の位置付けは極端から極端に振れているように見えます。なぜそうなるのか、これをロジカルに説明しようとすると「人間と動物という2つのカテゴリの2元論」が背景にあると推測するのが妥当だと思います。
「動物のカテゴリ」に入るものは「人間の支配下にあり、人間の利益のためのみに存在する」ものです。一方「人間のカテゴリ」は「基本的人権と生存権がある」カテゴリであり、動物のカテゴリとは断絶しています。
普通、生物学的な意味での動物は「動物のカテゴリ」であり、生物学的な意味での人間は「人間のカテゴリ」です。ただし、そうはならないケースもある。たとえば、No.18「ブルーの世界」で書いたような近代の黒人奴隷制を考えると、奴隷は「動物のカテゴリ」に入れられていたとしか考えられません。そして鯨は「動物のカテゴリ」だったはずなのですが、どういうわけか20世紀後半から「人間のカテゴリ」に移動した。
鯨が「動物のカテゴリ」だと、人間のために自由に利用してよいものになります。歯止めを失うと金儲けのための無制限の殺戮になりかねない。一方、鯨を「人間のカテゴリ」に入れたとすると、それを殺すような人間は罰を受けてよいことになります。「捕鯨は倫理に反する行為」になるのです。そして事実、そのような論がなされている。
「極端から極端に振れている」というのは外面的にそう見えるだけなのでしょう。「人間のカテゴリ」と「動物のカテゴリ」の2項対立で考える、ということにおいては終始一貫しているからです。
しかし問題は、個々の動物をどちらのカテゴリに位置づけるかは恣意的だということです。従って、同じクジラ類の大型海洋哺乳類でも「鯨やイルカを殺してはいけないが、シャチは殺してもよい」というような奇妙なことにもなりかねない。それは人々の考え方とその変遷、また文化的背景に依存します。陸上の哺乳類まで考えると、世界の中には牛が「人間のカテゴリ」に位置づけられている文化、いやそれ以上の「神に近い存在」とみなされている文化もあるのです。
しかし、こういった2項対立的考え方とは別の考え方もあると思います。それは日本の伝統的な沿岸捕鯨にみられる動物観です。
(以降、続く)