フランツ・リスト
No.7「ローマのレストランでの驚き」 でベッリーニのオペラ「ノルマ」の中のアリア「清き女神よ」について触れましたが、この「ノルマ」に関連して、絶対にはずせない芸術作品があります。フランツ・リスト(1811-1886)のピアノ曲「ノルマの回想」(1836)です。
ショパンを称して「ピアノの詩人」ということがありますが、それならピアニスト・作曲家としてのリストはどうでしょうか。ショパンにならって言うと、リストはピアノの詩人であると同時に、小説家であり、脚本家、翻訳家、エッセイスト、書評家でもあると言えるでしょう。「翻訳家」としての仕事は、ベートーベンの9つの交響曲のピアノ編曲版のような一連の編曲作品(トランスクリプション)です。またリストには、オペラの旋律をもとに自由に構成した幻想曲風の作品、いわゆるパラフレーズと呼ばれる作品群があるのですが、これはらはさしずめ「書評」か「エッセイ」でしょう。ドニゼッティ、ベッリーニ、ヴェルディ、モーツァルトなどのオペラに基づいたパラフレーズがあります。
トランスクリプションやパラフレーズはリストが自らの超絶技巧を披露するために作曲したと言われることがありますが、それだけではありません。トランスクリプションやパラフレーズが作曲家リストの音楽をきわめて豊かにし、普通のピアノ作品の作曲手法にも影響を与えています。なにしろオペラや交響曲を2手や4手のピアノで表現しようとする試みなのですから並大抵ではありません。この作業が、ピアノ音楽の可能性を格段に大きくしました。
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ところで、この「ノルマの回想」には、No.7 のローマのレストランで聞いた「清き女神よ」は出てきません。出てこないことで有名なのです。なぜこのオペラの(現代では)最もよく知られている旋律が出てこないのでしょうか。この疑問も含めて、リストが「ノルマ」の中のどの旋律を採用してピアノ曲を作ったのか、オペラのストーリーとともに追いかけてみたいと思います。
歌劇「ノルマ(1831初演)
「ノルマ」は2幕、4場構成のオペラです。長めの前奏曲のあと、劇は以下のように進行します。
第1幕 第1場
《ドルイド教の聖なる森》
物語の舞台はガリア(現代のフランス)のケルト人社会です。ケルトの固有宗教であるドルイド教の高僧であるオロヴェーゾ、その娘で巫女の長であるノルマ、当時のガリアのローマ総督のポリオーネ、ノルマの「部下」に相当する巫女のアダルジーザという、このオペラの4人の中心人物が登場し、物語の骨格が明らかにされます。ノルマは「敵将」であるはずのポリオーネを愛し2人の子供までもうけています。しかしポリオーネの心はすでにノルマを離れて、アダルジーザに向かっています。おりしもケルト人の間では、ローマに対する反発から好戦気分が盛り上がっています。
第1幕 第2場
《ノルマの家》
アダルジーザはノルマに、巫女には禁じられている恋をしたことを告白します。事情を知らないノルマはそれを許しますが、そこにポリオーネが偶然現れ、すべてが明らかになります。俗に言う「三角関係の修羅場」になり、それぞれの思いをぶつけ合う三重唱になります。
第2幕 第1場
《ノルマの家》
ノルマは2人の子供と心中しようとしますが果たせません。アダルジーザが現れ、ポリオーネとは別れる、子供たちの母親として生きてほしい、とノルマに言います。女同士の友情のようなものが芽生えます。
第2幕 第2場
《聖なる森の近くの寺院》
ポリオーネがアダルジーザを連れ去ろうとしたことを知ったノルマは怒り、戦闘を宣言します。ポリオーネは捕らえられてノルマの前に引き立てられます。ノルマはアダルジーザの名前は一切出さずに「(敵に通じた)裏切り者はこの私だ」と人々に宣言します。ポリオーネはノルマが自分の理想の人であることを改めて知ります。父親に2人の子供の助命を嘆願したノルマは、ポリオーネとともに自ら火刑台に向かいます。
掲げたCDのジャケット写真は以下のものです。
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台本:フェリーチェ・ロマーニ
ノルマ:マリア・カラス
ポリオーネ:フランコ・コレルリ
アダルジーザ:クリスタ・ルードヴィヒ
オロヴェーゾ:ニコラ・ザッカリア
ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
指揮:トゥリオ・セラフィン
録音:1960年9月(東芝EMI)
なお以下にオペラの台本の日本語訳が出てきますが、いずれもこのディスクのブックレットの解説(黒田恭一訳)をそのまま採用しました。
リストが採用した旋律
ピアノ曲「ノルマの回想」に出てくるオペラ「ノルマ」の旋律を、ピアノ曲での出現順にあげます。
◆譜例1 第1幕・第1場
「ノルマのお出ましだ」(合唱)

「ノルマの回想」の冒頭部分が譜例1です。これはオペラ「ノルマ」の第1幕・第1場の中程で、ノルマが登場する直前に合唱によって歌われる旋律です。ノルマのアリア「清き女神よ」は、譜例1のあとで歌われることになります。
◆譜例2・譜例3 第1幕・第1場
「あの丘に行って」(オロヴェーゾ、合唱)


オペラの前奏曲が終わったあとの第1幕の第1場は「ドルイド教徒たちよ、あの丘に行って、祈りをささげるのだ」で始まるオロヴェーゾの独唱と合唱で始まります。その中で出てくる旋律が譜例2と3です。ピアノ譜から旋律部分のみを抜き出しています。
◆譜例4 第1幕・第1場
「おそれ多き神様、お告げをノルマにくだして下さいますように」(オロヴェーゾ、合唱)

譜例2・3に続くオロヴェーゾと合唱のシーンです。人々の間にはローマとの開戦の気分が充満しています。「お告げ」とは「ローマ軍と戦え、というお告げ」の意味です。そういうお告げがほしいと、民衆は願っているのです。
ここまでの譜例1~4は、いずれも第1幕・第1場の前半に現れる旋律です。オペラに現れる順序では
譜例2→譜例3→譜例4→譜例1
となります。ノルマはまだ劇には登場しません。
◆譜例5 第2幕・第2場
「どうぞあの子たちを私の過ちの犠牲にしないでくだい」(ノルマ)

これは第2幕・第2場の最終場面、つまりオペラの最後において、ノルマが父のオロヴェーゾに2人の子供の助命を嘆願する場面です。
◆譜例6 第2幕・第2場
「この心をあなたは裏切った」(ノルマ)

同じく第2幕・第2場の最終場面、譜例5の前でノルマは「裏切り者の巫女は私だ」と人々に向かって衝撃の発言をするのですが、その直後にポリオーネに向かって言う言葉です。この発言でポリオーネは自らを恥入り、あらためてノルマへの愛情に目覚めます。
◆譜例7 第2幕・第2場
「父よ、おお父よ、私は愛情に負けたのです」(ノルマ)

譜例5の直後のシーンで、オペラはまさに最終段階に入っています。ノルマは子供たちの助命の約束を父のオロヴェーゾからとりつけるのですが、その直前にでてくる旋律です。
◆譜例8 第2幕・第2場
「戦いだ、戦いだ、ガリアの森で」(合唱)

これは第2幕・第2場の中程において、ノルマがローマ軍への戦闘を宣言したあとに人々が合唱する場面です。
譜例5~8はいずれも第2幕・第2場の後半です。オペラに現れる順序では
譜例8→譜例6→譜例5→譜例7
となります。
こうしてみると、リストが「ノルマの回想」に用いた旋律は、オペラの開始直後(譜例1~4)と終了直前(譜例5~8)に集中していることが分かります。「ノルマの回想」の演奏時間から見ると、ちょうど前半が譜例1~4、後半が譜例5~8を元に構成されています。どうも意図的にこのように構成されているようです。
「清き女神よ」
「ノルマの回想」には最も有名なアリア「清き女神よ」(第1幕・第1場)が出てこないことで有名、と最初に書きました。一つ確実に言えることは「清き女神よ」が出てこないと同時に、出てこない美しい旋律がほかにも沢山あるということです。つまり第1幕・第1場の後半(譜例1のあと)から、第2幕・第2場の前半(譜例8の前)までの間に出てくる旋律は「ノルマの回想」には全く出てきません。たとえば第2幕・第1場のノルマとアダルジーザの美しい2重唱は出てこないのです。リストの「選曲」は意図的で、オペラの最初と最後のモチーフだけをピアノ化しているのです。
もう一つあります。リストの「選曲」はピアノで表現しやすいものに限っているのでは、と思うのです。譜例1~8にノルマのアリアは3つありますが(譜例5、6、7)、いずれも自ら死を決意したノルマが、どちらかと言うと「淡々と」ないしは「切々と」オロヴェーゾやポリオーネに訴えるというシーンです。このシーンと「清き女神よ」は少々違うのではないでしょうか。
これを説明するために「清き女神よ」についての、マリア・カラスの言葉を引用したいと思います。2010年7月7日、NHK-BSハイビジョンで「カラス・アッソルータ」(Callas assoluta。究極のカラス)という、フランスで制作されたドキュメンタリー番組が放映されました。この中でマリア・カラスはこのように語っています。
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その通りなのです。ソプラノ歌手は「清き女神よ」で「強く激しいと同時に、寛大で気高い女性」を演じなければなりません。「とても重要で難しい歌」であり「力強いレシタティーヴォの後、澄み渡る声で静かに歌うことが大切」なのです。このアリアは人間の声と演技でこそ、もっと言うと最高のソプラノ歌手が技術と感情表現力の粋を尽くしてこそ意味のあるアリアです。リストもそれが分かっていて、あえて「選曲」からはずしピアノ曲にはしなかったのではないでしょうか。
もちろん全くの想像に過ぎません。本当の事情は全く違うかもしれない。しかしどうせ音楽を聞くのなら、こういった「夢想」をしながら聞く方が楽しいと思うのです。いずれにせよこの曲は、2人の天才芸術家がクロスオーバーした地点で生まれた稀な傑作です。
- なお、『ノルマの回想』と類似の作品に、マイアベーアのオペラをもとにしたパラフレーズがあります。これについては、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」に書きました。