No.199 - 円山応挙の朝顔

No.193「鈴木其一:朝顔の小宇宙」で、メトロポリタン美術館が所蔵する鈴木其一(1795-1858)の『朝顔図屏風』のことを書きました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手 展」で展示された作品です。 実はこのすぐあとに、もう一枚の "朝顔" を鑑賞する機会がありました。円山応挙(1733-1795)が描いた絵です。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』展(2016年11月3日~12月18日)に、その朝顔が展示されていました。今回はこの展覧会のことを書きます。 この展覧会は応挙の画業を網羅していて、多数の作品が展示されていました。国宝・重要文化財もあります。その中から朝顔を含む4作品に絞り、最後に全体の感想を書きたいと思います。 朝顔図 円山応挙 「朝顔図」 天明四年(1784)51歳 (相国寺蔵) 並んで展示されていた『薔薇ばら文鳥図』と二幅一対の掛け軸で、この二幅は元々 "衝立て" の両面だったと言います。朝顔の銀地に対して、薔薇文鳥は金地でした。 この絵は、画面右下のほぼ4分の1に朝顔を密集させ、それによって銀地の余白を引き立てています。朝顔の蔓は左方向横と左斜め上に延び、銀地を心地よく分割しています。花と葉の集団は画面の右端でスパッと切断されていて、さらに右への朝顔の広がりが感じられます。"完璧な構図" といったところでしょう。 "完璧な構図" と書きましたが、これは日…

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No.198 - 侵略軍を撃退した日本史

No.37「富士山型の愛国心」の中で元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)についてふれたのですが、今回はその継続というか、補足です。 最近の新聞に、元寇について近年唱えられた説の紹介がありました。日本の勝因は「神風」ではなかったという説です。それを紹介したいと思います。 日本の勝因は「神風」ではなかった くまもと文学・歴史館の館長・服部英雄氏(日本中世史)は著書の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)で「神風=暴風雨」説を否定し、学界の内外にセンセーションを巻き起こしました。 (神風が勝因という)見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。 元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。 では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。…

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