No.146 - お粥なら食べれる
前回の No.145「とても嬉しい」で、丸谷才一・山崎正和の両氏の対談本『日本語の21世紀のために』から「とても」と「全然」の使い方を取り上げました。この本では "有名な"「見れる」「来れる」という言葉遣いについても話題にしています。「とても」「全然」は個々の単語の問題ですが、「見れる」「来れる」に代表される、いわゆる "ラ抜き言葉" は、動詞の可能形をどう表現するかという日本語の根幹に関わっているので重要です。
丸谷才一・山崎正和
「日本語の21世紀のために」
(文春新書)
「・・・・・・ することが出来る」という "可能" の意味で、
来られる見られる食べられる
と言わずに、
来れる見れる食べれる
とするのが、俗に言う "ラ抜き言葉" です。文法用語で言うと「来る」はカ行変格活用動詞、「見る」は上一段活用動詞、「食べる」は下一段活用動詞ということになります。 "ラ抜き言葉" が日本語の乱れか、そうでないのか、今でもまだ議論があると思います。これについて丸谷才一氏は次のように語っています。
丸谷才一
僕は「来れる」は使いませんね。「来られる」「来られない」でやっています。「見れる」も使わない。ただしこれは「見られる」とは言わずに「見ることができる」「──できない」と言っている気がします。
僕はしかし、自分では使わないけれども、「見れる」「来れる」を使うからといって、それを咎めたり、非難したりする気はないんですよ。いや、昔は非難したかな ?
丸谷…