No.130 - 中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録

No.64~68 は「中島みゆきの詩」と題して、中島みゆきさんが35年に渡って書いた詩(の一部。約70編)を振り返りました。その中の No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」では、現代社会に対するメッセージと考えられる詩や、社会と個人の関わりについての詩を取り上げました。今回はその続きです。 最近、内田樹たつる氏の「街場の共同体論」(潮出版社 2014)を読んでいたときに、中島さんの「社会に関わった詩」を強く思い出す文章があったので、そのことを書きます。 内田 樹・著「街場の共同体論」は、家族論、地域共同体論、教育論、コミュミケーション論、師弟論などの「人と人との結びつき」のありかたについて、あれこれと論じたものです。主張の多くは内田さんの今までのブログや著作で述べられていることなのですが、「共同体 = 人と人との結びつき」に絞って概観されていて、その意味ではよくまとまった本だと思いました。この中に「階層社会」について論じた部分があります。 階層社会の本質 「階層社会」という言葉をどうとらえるかは難しいのですが、ここではごくアバウトに、  単一の、あるいは数少ない "ものさし"で測定される「格差」があり、その格差が「固定的」である社会 という風に考えておきます。人の格差を測定する"ものさし"とは、その人の「年収」や、もっと曖昧には「社会的地位」であり、固定的とは、階層上位のものは(あるいは集団は)ずっと上位にとどまり、それは世代を越えて続く傾向にあるこ…

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No.129 - 音楽を愛でるサル(2)

(前回から続く)キツネとブドウ 前回からの続きで、正高まさたか信男・著『音楽を愛でるサル』(中公新書 2014)についての話です。著者は音楽が「認知的不協和」に与える影響を実験したのですが、「認知的不協和」を説明するためにイソップ寓話の「キツネとブドウ」を例にあげています。 「キツネとブドウ」は大変に有名な話で、数々の類話や脚色があります。著者もかなり「脚色して」紹介しているのですが、オリジナル版の話は短いものです。最も広まっているシャンブリ版(フランス 1927)のイソップ寓話集からの訳を掲げます。 飢えたキツネが、ブドウだなからブドウの房がさがっているのを見て、取ろうと思った。しかし、取ることができなかったので、つぎのようにひとりごとをいいながら立ち去った。「あれはまだ酸っぱくて食えない」 同様に、人間のなかにも、自分の力がなくてことをうまく運ぶことができないのを、周囲の事情のせいにする者がいる。 塚崎 幹夫・訳 『新訳 イソップ寓話集』 (中公文庫 1987) キツネが立ち去る時の「捨てぜりふ」は、要するに「負け惜しみ」です。英語で「酸っぱいブドウ=sour grapes」と言うと、ズバリ負け惜しみを意味します。 この話を心理学的に解釈するとどうなるでしょうか。心理学では「したくてもできない」という状況に置かれたとき「認知的不協和」が生じたと言い、そのとき人は(イソップではキツネですが)心のバランスを回復するために自分の認識を都合よく修正する傾向…

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No.128 - 音楽を愛でるサル(1)

No.62「音楽の不思議」で、音楽の「不思議さ」についていろいろ書きました。特に、  印象的なメロディーは、長い期間たっても忘れない 正高信男 「音楽を愛でるサル」 (中公新書 2014) ことです。自分が好きな曲ならまだしも、(私にとっての)キャンディーズの楽曲のように、知らず知らずのうちに意識することなく憶えた曲が30年たっても忘れずにいることが大変に不思議だったのです。 それはなぜなのか。音楽は人間の言語活動と関係しているのでは、というようなことを書いたのですが、最近出た本にその疑問に答えるヒントがあったので紹介したいと思います。正高まさたか信男氏の『音楽を愛でるサル』(中央公論社。中公新書 2014)です。正高氏は心理学が専門で、京都大学霊長類研究所教授です。なぜ心理学者が霊長類の研究をするのかというと、サルの研究の大きな目的が人間の研究だからです。 以下は『音楽を愛でるサル』に書かれていることのうち、音楽がヒトに与える影響についての学問的知見の部分です。 ホモ・ミュージエンス 本書の題名はもちろん「音楽を愛めでるサルがいる」という意味ではなく「ヒトは音楽を愛でるサルである」という意味です。本書の「はじめに」では、ニホンザルについての次のような話が書かれています。 モニターを彼ら(引用注:ニホンザル)の前に運び込み、テレビ放送を見せると、それなりに興味を示す。写真も然しかり。けれども聴覚を介した娯楽となると、からっきしそういう嗜好し…

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