No.380 - 似鳥美術館

過去の記事で、13の "個人コレクション美術館" を紹介しました。以下の美術館です。 No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア No.155コートールド・コレクション英:ロンドン No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ No.242ホキ美術館千葉市 No.263イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館米:ボストン No.279笠間日動美術館茨城県・笠間市 No.303松下美術館鹿児島県・霧島市 笠間日動美術館以外は、いずれもコレクターの名が冠されています。ちなみに最後の「松下」は、松下幸之助のことではなく、霧島市出身の医師、松下兼知かねとも氏です。 今回は、その "個人コレクション美術館" シリーズの14番目として、北海道・小樽市にある似鳥美術館のことを書きます。 小樽 似鳥美術館について語る場合、まず、小樽という都市の歴史から入るのが適切でしょう。小樽は、明治になってからニシン漁の拠点として発展を遂げました。多いときには年間1億トンの水揚げと…

続きを読む

No.379 - 高校数学で理解する秘書問題

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)No.376「高校数学で理解するマッチング問題」に関連する話題を取り上げます。関連といっても "答が同じ数値になる" という意味の関連で、問題の性質は違います。 No.376 では、一般的にマッチング問題(出会いの問題)と言われるものを「席替えの成功確率」という形で提示しました。次のような問題です。 小学校の 40人のクラスで、席替えを "くじ引き" でやるとします。まず、現在の席に 1 ~ 40 の席番号を割り振ります。担任の先生は、1~40 の数字を書いた紙を40枚用意し、その紙を数字が見えないように折って、箱の中に入れてかき混ぜます。生徒は順に箱から紙を1枚ずつ引き、そこに書かれている数字がその子の新しい席となります。 もちろんこのやり方だと、今の自分の席番号の紙を引く子が現れる可能性があります。そして「すべての子が現在の席番号と違う番号を引いた…

続きを読む

No.378 - クロテンの毛皮の女性:源氏物語

パルミジャニーノ 「アンテア」 No.332「クロテンの毛皮の女性」のテーマは、16世紀イタリアの画家・パルミジャニーノの『アンテア』(ナポリ・カポディモンテ美術館)でした。女性の全身像を描いた絵です。この絵の大きなポイントは、超高級品であるクロテンの毛皮で、しかもその毛皮にクロテンの頭部の剥製がついている(当時の流行らしい)、そのことによる "象徴性" でした。それは、描かれた女性の気性きしょうと感情を暗示している(と、絵を見る人が感じる)のでした。 ところで『アンテア』とは何の関係もないのですが、日本文学史上で著名な、"クロテンの毛皮を身につけた女性" がいます。源氏物語の登場人物の一人である "末摘花すえつむはな" です。以下、源氏物語でクロテンの毛皮がどのように扱われているかをみていきます。漢字で書くと、クロテン = 黒貂 です。 末摘花 源氏物語の第六帖は「末摘花」と題されています。末摘花は、赤色染料に利用する紅花べにばなの別名で、同時に、源氏がある姫君につけた "あだ名" です。名前の理由は物語の中で明かされます。 第六帖「末摘花」において源氏は18歳(数え年)す。この年齢では、物語の先々まで影響する重要な出来事が起こります。まず、父(桐壺帝)の妃である藤壺との密通があり、藤壺が懐妊します。また、不遇の身である紫の上(藤壺の姪)を見い出し、二条院(源氏の邸宅)に引き取ります。これらの出来事は第五帖の「若紫」で語られますが、同時並行で進むのが「末摘花」です。 …

続きを読む

No.377 - 私には恋人があるの

このブログでは「言葉の使い方が時とともに変化する」という視点の記事をいくつか書きました。多くは「語彙や意味の変化」に関するもので、   No.144 - 全然OK   No.145 - とても嬉しい   No.147 - 超、気持ちいい   No.362 - ボロクソほめられた が相当します。ここでは、"全然"、"とても"、"超"、"めちゃ"、"ぼろくそ" などをとりあげました。それ以外に「文法の歴史的変遷」に関する記事もあって、   No.146「お粥なら食べれる」 です。この記事の中では "可能" を示す表現の変遷をたどりました。 我々は言葉によって考えています。その結果、言葉は人の認知能力に影響を与えます(No49, No.50, No.139, No.140, No.141, No.142, No.143)。また、風景や絵を見るときも、その全体や部分に言葉を割り当て、その言葉によっても記憶します。言葉は我々の認識・思考・発想・記憶を豊かにすると同時に、制約します。言葉には関心を持たざるを得ないのです。 今回は、そういった一連の記事の継続で、「文法の歴史的変遷」の例を取り上げます。 日本経済新聞の "春秋" 2024年8月11日の日本経済新聞の朝刊コラム "春秋" は、日本国語大辞典(小学館。1972年刊行開始)の改訂作業が始まるというテー…

続きを読む

No.376 - 高校数学で理解するマッチング問題

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\) 今まで「高校数学で理解する ・・・・・・」というタイトルの記事をいくつか書きましたが、その続きです。過去の記事は、 No.310-1  高校数学で理解するRSA暗号の数理No.313  高校数学で理解する公開鍵暗号の数理No.315-6  高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理No.325  高校数学で理解する誕生日のパラドックスNo.329  高校数学で理解するレジ行列の数理No.354-9  高校数学で理解するガロア理論(1)~(6)No.365-6  高校数学で理解する ChatGPT の仕組みNo.369  高校数学で理解する素数判定の数理No.370  高校数学で理解するガロ…

続きを読む

No.375 - 定住生活の起源

No.232「定住生活という革命」の続きです。最近の新聞に日本列島における定住の起源に関する記事があったので、No.232 に関係した話として以下に書きます。 変わりゆく考古学の常識 2024年8月7日の朝日新聞(夕刊)に、  定住の兆し 旧石器時代に  変わりゆく考古学の常識 との見出しの記事が掲載されました。これは、東京大学大学院の森先もりさき一貴かずき准教授が2024年度の浜田青陵賞(考古学の顕著な業績に贈られる賞。第36回)を受賞されたのを機に、記者が森先准教授に取材した記事です。見出しの通り、新しい発見によって考古学の従来の常識がどんどん書き換えられている、との主旨の記事です。 ちなみに見出しの「旧石器時代」ですが、日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)がやってきたのが約4万年前で、そこから縄文時代が始まる約1万6千年前までを世界の先史時代の区分に合わせて「旧石器時代」と呼んでいます。「旧石器」は打製石器、「新石器」は磨製石器の意味ですが、日本では縄文時代以前にも磨製石器があったので、石器の種類での時代区分はできません。 新たな発見や研究の深まりで通説が塗りかわるのもこの世界の常だ。たとえば縄文時代の到来を象徴する土器はかつて、1万年ほど前に最終氷期が幕を閉じて環境の変化とともに出現したとされてきた。ところが近年、土器の誕生は1万6千年ぼど前にさかのぼり、氷期に食い込む。かつての常識はもはや通用しない。 同様に「定住…

続きを読む

No.374 - マイノリティは過小評価される

No.347「少なくともひとりは火曜日生まれの女の子」は、偶然の出来事が起こる "確率" を考えることは人間にとって難しい、というテーマでした。イギリスの著名な数学者、イアン・スチュアートは次のように書いています。 確率に対する人間の直感は絶望的だ。偶然の出来事が起こる確率をすばやく推定するように促されると、たいていはまったく間違った答えを出す。プロの賭博師や数学者のように鍛錬を積めば改善はできるが、時間も労力も必要だ。何かが起こる確率を即断しなければならないとき、私たちの答えは誤っていることが多い。 イアン・スチュアート   「不確実性を飼いならす」 (徳田 功・訳。白揚社 2021) スチュアートの本には次のような設問が載っていました。前提として、女の子と男の子は等しい確率で生まれてくるとします。また、赤ちゃんが生まれる曜日は、日・月・火・水・木・金・土、で同じ確率とします。 ① スミス夫妻には2人の子どもがいます。2人とも女の子である確率はどれだけですか。 ② スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくとも一人は女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。 ③ スミス夫妻には2人の子どもがいて、少なくとも一人は火曜日生まれの女の子です。2人とも女の子である確率はどれだけですか。 ① の正解は \(\tfrac{1}{4}=0.25\) ですが、\(\tfrac{1}{3}\…

続きを読む

No.373 - 伊藤若冲「動植綵絵」の相似形

No.371「自閉スぺクトラムと伊藤若冲」の続きです。No.371 は、精神科医の華園はなぞの力つとむ氏の論文を紹介したものでした。華園先生は各種資料から、伊藤若冲を AS者(AS は Autism Spectrum = 自閉スペクトラム)であると "診断" し、臨床医としての経験も踏まえて、AS者によく見られる視覚表現の特徴が若冲の絵にも現れていると指摘されたのでした。その特徴とは、 ◆ 細部への焦点化 ◆ 多重視点 ◆ 表情認知の難しさ ◆ 反復繰り返し表現 の4つで、詳細は No.371 で紹介した通りです。その No.371 には書かなかったのですが、華園先生の論文「自閉スペクトラムの認知特性と視覚芸術」(日本視覚学会誌 VISION Vol.30-4, 2018)には気になる記述があります。それは、必ずしもAS者が備えているわけではないが、AS者に随伴することが多い能力があるとの指摘です。その能力とは、 ◆ 共感覚 ◆ カメラアイ ◆ 法則性の直感的洞察力 です。「共感覚」というのは、文字や数字、音、形に色を感じたりする例で、ある刺激を感覚で受け取ったときに、同時にジャンルの異なる感覚が生じる現象を言います。 「カメラアイ」は、見たものをまるでカメラで写したように記憶できる「視覚映像記憶」のことです。たとえばある都市の写真を見て、その後、記憶だけを頼りに都市風景を詳細に描き起…

続きを読む

No.372 - ヒトの進化と "うま味"

No.360「ヒトの進化と苦味」の続きです。味覚の "基本5味" は、甘味・塩味えんみ・酸味・苦味・うま味で、このそれぞれに対応した味覚受容体(= 舌の味蕾みらい細胞の表面にある味覚センサー)が存在します。 味覚受容体のうち、苦味受容体だけは多種類あり、それは霊長類(サルの仲間)の進化と密接な関係があります。つまり小型の霊長類では、マーモセットが20種、リスザルが22種、メガネザルが16種などですが、大型霊長類ではそれよりも種類が多く、ゴリラは25種、チンパンジーは28種、ヒトは26種です。 多くの苦味受容体を持つに至ったのは、進化の過程に深く関係がある。苦味受容体は、ヒトの祖先である霊長類が「主食を昆虫から植物の葉へと変えていく過程で増えていった」と北海道大学大学院 地球環境科学研究院 助教の早川卓志さん(博士)は解説する。早川さんはゲノム解析を通じて野生動物の行動や進化を研究する。 霊長類の祖先にあたる哺乳類は昆虫を主食としていたが、体が大きくなるにつれて虫だけでは栄養が不足し、葉に含まれるたんぱく質を摂取するようになる。植物はもともと毘虫に食べられないよう多様な毒を蓄えており、ヒ卜の祖先は「それを避けるように『苦味感覚』というセンサーを発達させ、受容体の数も増やした」(早川さん)。従って、植物を食べない哺乳類では苦味感覚の出番はあまりなく、受容体の数も少ない傾向にある。肉食のネコは霊長類の約3分の1、イルカ・クジラに至ってはゼロだ。 No.360「ヒトの進化と…

続きを読む

No.371 - 自閉スぺクトラムと伊藤若冲

No.363「自閉スペクトラム症と生成 AI」は、自閉スペクトラム症の女性を主人公にしたフランスの警察ドラマ、「アストリッドとラファエル」に触発されて書いた記事でした。今回は自閉スペクトラムと絵画との関係について書きます。 皇居三の丸尚蔵館 皇室が国に寄贈した美術工芸品を収蔵する三の丸尚蔵館は、新施設の建設工事(第1期)が完成し、これを記念して2023年11月から2024年6月まで、所蔵作品を展示する開館記念展が開催されました。これは第1期から4期に分かれており、その第4期の展示(2024年5月21日~6月23日)に行ってきました。 第4期には 14点の美術工芸品が展示されていて、どれもすばらしいものでしたが、何と言っても目玉は、狩野永徳の『唐獅子屏風』(国宝)と伊藤若冲の『動植綵絵』(全30幅のうちの4幅。国宝)でしょう。私は『唐獅子屏風』は別の展覧会で見たことがあったのですが、『動植綵絵』は初めてでした。 伊藤若冲の『動植綵絵』 そもそも4期に渡るこの展示会は、『動植綵絵』の "全30幅のうちの12幅" が大きな "目玉作品" でした。そのうちの8幅は第1期の前期と後期にそれぞれ4幅が展示され、今回が最後の4幅です。展示されていたのは、 ・老松孔雀図 ・諸魚図 ・蓮池遊魚図 ・芙蓉双鶏図 でした。なお、No.215「伊藤若冲のプルシアン・ブルー」に書いた『群魚図《鯛》」は『諸魚図』とは別です。今回の作品は蛸たこが目立つので『群魚図《蛸》』と呼…

続きを読む

No.370 - 高校数学で理解するガロア理論(7)可解性の判定

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)No.359「高校数学で理解するガロア理論(6)」の補足をここに書きます。No.359 では \(x^5+11x-44=0\) という5次方程式をとりあげ、それが可解であることと(ガロア群は \(D_{10}\))、実際に数式処理ソフトで求めた解を記載しました。しかし、なぜ可解なのか(=四則演算とべき根で表せるのか)、そもそも可解性をどう判断するのには触れませんでした。そこで今回はその補足して、 ・ 一般の5次方程式の可解性をどう判断するのか・ 5次方程式のガロア群の求め方 を書きます。もちろんこれは、「高校数学で理解するガロア理論」シリーズの一部であり、前に書いた以下の記事の知識を前提とします。 No.354 - 高校数学で理解するガロア理論(1)証明の枠組み No.355 - 高校数学で理解するガロア理論(2)整数の群・多項式・体 …

続きを読む

No.369 - 高校数学で理解する素数判定の数理

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)今まで「高校数学で理解する・・・」という記事を何回か書きましたが、その中に暗号についての一連の記事があります。 No.310「高校数学で理解するRSA暗号の数理(1)」 No.311「高校数学で理解するRSA暗号の数理(2)」 No.313「高校数学で理解する公開鍵暗号の数理」 No.315「高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(1)」 No.316「高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(2)」 の5つです。これらは公開鍵暗号と、その中でも代表的な RSA暗号、楕円曲線暗号の数学的背景を書いたものです。情報通信をインフラとする現代社会は、この公開鍵暗号がなくては成り立ちません。"数学の社会応用" の典型的な例と言えるでしょう。 これらの暗号では、10進数で数10桁~数100桁の素数が必要です。ないしは、数10桁~数100桁の数が素数かどうかを判定す…

続きを読む

No.368 - 命のビザが欲しかった理由

No.201「ヴァイオリン弾きとポグロム」に関連する話です。No.201 の記事は、シャガール(1887-1985)の絵画『ヴァイオリン弾き』(1912)を、中野京子さんの解説で紹介したものでした。有名なミュージカルの発想のもとになったこの絵画には、ユダヤ人迫害の記憶が刻み込まれています。シャガールは帝政ロシアのユダヤ人強制居住地区(現、ベラルーシ)に生まれた人です。 絵のキーワードは "ポグロム" でした。ポグロムとは何か。No.201 で書いたことを要約すると次のようになるでしょう。 ◆ ポグロムはロシア語で、もともと「破壊」の意味だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。単なるユダヤ人差別ではない。 ◆ ポグロムに加わったのは都市下層民や貧農などの経済的弱者で、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や、店を襲っての金品強奪、暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだ。 ◆ ポグロムはロシアだけの現象ではない。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト3国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まった。特に19世紀末からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れた。 ◆ 嵐が吹き荒れるにつれ、ポグロムに警官や軍人も加わるようになり、政治性を帯びて組織化した。この頂点が、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストである。 故・杉浦千畝 (朝日新聞より) その、ナチスによるホ…

続きを読む

No.367 - 南部鉄器のティーポット

これまでの記事で、NHK総合で定期的に放映されているフランスの警察ドラマ「アストリッドとラファエル」から連想した話題を2つ書きました。 No.346「アストリッドが推理した呪われた家の秘密」(シーズン1 第2話「呪われた家」より) No.363「自閉スペクトラム症と生成AI」(シーズン2 第6話「ゴーレム」より) の2つです。今回もその継続で、このドラマに出てくるティーポットの話を書きます。 ダマン・フレール パリのマレ地区のヴォージュ広場を囲む回廊の一角に、紅茶専門店、ダマン・フレール(Dammann Frères)の本店があります。ダマン・フレールは、17世紀のルイ14世の時代にフランスにおける紅茶の独占販売権を得たという老舗しにせで、ホームページには次のようにあります。 フランス王室に認められた 随一のティーブランド ダマンフレールの歴史は、1692年、フランス国王ルイ14世によりフランス国内での紅茶の独占販売権を許可されたことから始まりました。それはまた、フランスにおける紅茶の歴史の始まりとも言えます。1925年には紅茶を愛してやまないダマン兄弟により紅茶専門のダマン・フレール社が立ち上げられ、上流階級の嗜好品としての紅茶文化が開花しました。 ダマン・フレールの日本語公式サイトより ちなみに、フレールとはフランス語で兄弟の意味で、屋号は「ダマン兄弟」です。緑茶や中国茶も扱っているので「お茶専門店」…

続きを読む

No.366 - 高校数学で理解する ChatGPT の仕組み(2)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)(前回より続く) この記事は、No.365「高校数学で理解する ChatGPT の仕組み(1)」の続きです。記号の使い方、用語の定義、ニューラル・ネットワークの基本事項、単語の分散表現などは、前回の内容を踏まえています。   3.Transformer    Attention Is All You Need Google社は、2017年に "Attention Is All You Need" という論文(以下、"論文" と記述)を発表し、"Transformer" という画期的な技術を提案しました。Transformer は機械翻訳で当時の世界最高性能を発揮し、これが OpenAI 社の GPT シリーズや ChatGPT につながりました。 Attention(アテンション)とは "注意" という意味で、Tr…

続きを読む

No.365 - 高校数学で理解する ChatGPT の仕組み(1)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)前回の No.364「言語の本質」の補足で紹介した新聞記事で、慶応義塾大学の今井教授は、 ChatGPT の「仕組み」(=注意機構)と「メタ学習」は、幼児が言語を学習するプロセスと類似している と指摘していました。メタ学習とは「学習のしかたを学習する」ことですが、 ChatGPT がそれをできる理由も「注意機構(Attention mechanism)」にあります。そこで今回は、その気になる ChatGPT の仕組みをまとめます。 今まで「高校数学で理解する ・・・・・・」というタイトルの記事をいくつか書きました。 No.310-1  高校数学で理解するRSA暗号の数理No.313  高校数学で理解する公開鍵暗号の数理No.315-6  高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理No.325&emsp…

続きを読む

No.364 - 言語の本質

No.344「算数文章題が解けない子どもたち」で、慶応義塾大学 環境情報学部教授の今井むつみ氏の同名の著作を紹介しました(著者は他に6名)。今回は、その今井氏が名古屋大学准教授の秋田喜美きみ氏(言語心理学者)と執筆した『言語の本質 - ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書 2023。以下、"本書")を是非紹介したいと思います。共同執筆ですが、全体の核の部分は今井氏によるようです。 今井むつみ 秋田喜美 「言語の本質」 (中公新書 2023) 言うまでもなく、言語は極めて複雑なシステムです。それを、全くのゼロ(=赤ちゃん)から始まってヒトはどのように習得していくのか。本書はそのプロセスの解明を通して、言語の本質に迫ろうとしています。それは明らかに「ヒトとは何か」に通じます。 "言語の本質" とか "言葉とは何か" は、過去100年以上、世界の言語学者、人類学者、心理学者などが追求してきたものです。本書はその "壮大な" テーマを扱った本です。大風呂敷を広げた題名と思えるし、しかも新書版で約280ページというコンパクトさです。大丈夫なのか、見かけ倒しにならないのか、と疑ってしまいます。 しかし実際に読んでみると「言語の本質」というタイトルに恥じない出来映えの本だと思いました。読む立場としても幾多の発見があり、また個々の論旨の納得性も高い。以下に、内容の "さわり" を紹介します。 AI研究者との対話 本書で展開されている著者の問題意識のきっかけが、今井氏によ…

続きを読む

No.363 - 自閉スペクトラム症と生成AI

No.346「アストリッドが推理した呪われた家の秘密」で、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」に関係した話を書きました("麦角菌" と『イーゼンハイムの祭壇画』の関係)。今回もその継続で、このドラマから思い出したことを書きます。現在、世界中で大きな話題になっている "生成AI" に関係した話です。 アストリッドとラファエル 「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。そのシーズン2の放映が2023年5月21日から始まりました。 アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力、推理力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・モーテンセンの演技が素晴らしい)。 シーズン2 第6話「ゴーレム」(2023年6月25日) この第6話で、ラファエル警視とペラン警部とアストリッドは、殺害された犯罪被害者が勤務していた AI 開発会社を事情聴取のために訪れます。会社の受付にはデ…

続きを読む

No.362 - ボロクソほめられた

先日の朝日新聞の「天声人語」で、以前に書いた記事、No.145「とても嬉しい」に関連した "言葉づかい" がテーマになっていました。今回は、No.145 の振り返りを含めて、その言葉づかいについて書きます。 「天声人語」:2023年 6月 11日 「天声人語」は例によって6段落の文章で、段落の区切りは▼で示されています。以下、段落の区切りを1行あけで引用します。 夕方のバス停でのこと。中学生らしき制服姿の女の子たちの会話が耳に入ってきた。「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」。えっと驚いて振り向くと、楽しげな笑顔があった。若者が使う表現は何とも面白い。 「前髪の治安が悪い」「気分はアゲアゲ」。もっと奇妙な言い方も闊歩かっぽする昨今だ。多くの人が使えば、それが当たり前になっていく。「ボロクソ」は否定的な文脈で使うのだと、彼女らを諭すのはつまらない。言葉は生き物である。 大正の時代、芥川龍之介は『澄江堂ちょうこうどう雑記』に書いている。東京では「とても」という言葉は「とてもかなはない」などと否定形で使われてきた。だが、最近はどうしたことか。「とても安い」などと肯定文でも使われている、と。時が変われば、正しい日本語も変化する。 今どきの若者は、SNSの文章に句点を記さないとも聞いた。「。」を付けると冷たい感じがするらしい。元々、日本語に句読点がなかったのを思えば、こちらは先祖返りのような話か。 新しさ古さに関係なく、気をつけるべきは居心地の…

続きを読む

No.361 - 寄生生物が宿主を改変する

今まで、寄生生物が宿主(=寄生する相手)を操あやつるというテーマに関連した記事を書きました。 No.348「蚊の嗅覚は超高性能」 No.350「寄生生物が行動をあやつる」 No.352「トキソプラズマが行動をあやつる」 の3つです。最初の No.348「蚊の嗅覚は超高性能」を要約すると、 ◆ 蚊がヒトを感知する仕組みは距離によって4種あり、その感度は極めて鋭敏である。 10メートル程度 : ヒトの呼気中の二酸化炭素 3~4メートル : ヒトの臭い 1メートル程度 : ヒトの熱 最終的に : ヒトの皮膚(色で判断) ◆ ある種のウイルスは、ネズミに感染すると一部のたんぱく質の働きを弱める。それによってアセトフェノンを作る微生物が皮膚で増え、この臭いが多くの蚊を呼び寄せる(中国・清華大学の研究)。 でした。また No.350「寄生生物が行動をあやつる」は、次のようにまとめられます。 ◆ ハリガネムシは、カマキリに感染するとその行動を改変し、それによってカマキリは、深い水辺に反射した光の中に含まれる「水平偏光」に引き寄せられて水に飛び込む。ハリガネムシは水の中でカマキリの体から出て行き、そこで卵を生む。 ◆ トキソプラズマに感染したオオカミはリスクを冒す傾向が強く、群のリーダーになりやすい。 ◆ トキソプラズマに感染…

続きを読む

No.360 - ヒトの進化と苦味

今まで、ヒトと苦味の関係について2つの記事を書きました。  No.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」  No.178「野菜は毒だから体によい」 の2つです。No.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」を要約すると次の通りです。 ◆ 苦味は本来、危険のサインである。 ◆ 舌で苦味を感じるセンサー、苦味受容体は、鼻などの呼吸器系にもあり、細菌などの進入物から体を防御している。その働きは3つある。 ・ 細胞にシグナルを送り、繊毛を動かして進入物を押し出す ・ 細胞に指示して殺菌作用のある一酸化窒素を放出させる ・ 細胞に指示してディフェンシンという抗菌作用のあるタンパク質を放出させる ◆ さらに、苦味受容体は呼吸器系だけでなく体のあちこちにあり(たとえば小腸)、免疫機能を果たしている。 五味と総称される、甘味・酸味・塩味・苦味・うま味のうち、苦味を除く4つは、その味を引き起こす物質が決まっています。 甘味 :糖 酸味 :酸=水素イオン 塩味 :塩=ナトリウムイオン うま味 :アミノ酸 です。この4味を感じる味覚受容体はそれぞれ1種類です。しかし苦味を引き起こす物質は多様で、それに対応して苦味受容体も複数種類あります。そしてヒトは、本来危険のサインである苦味を楽しむ文化を作ってきました。 ・ お茶を飲む文化…

続きを読む

No.359 - 高校数学で理解するガロア理論(6)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)(前回から続く) (目次)  7.可解性の十分条件(続き)    7.8 可解な5次方程式 大多数の5次方程式のガロア群は、対称群 \(S_5\) か 交代群 \(A_5\) であり、従って可解ではありません(65G)。しかし特別な形の5次方程式は可解です。 \(x^5-2=0\) の根 その可解な5次方程式として \(x^5-2=0\) を取り上げ、ガロア群を分析します。この方程式の根がべき根で表現できること(=可解)はあたりまえだし、こんな "単純な" 方程式のガロア群を分析することに意味があるのかどうか、疑ってしまいます。 しかし、\(x^5-2=0\) のガロア群は可解な5次方程式のガロア群としては最も複雑なのです。方程式の "見た目の" 単純・複雑さと、ガロア群の単純・複雑さはリンクしません。…

続きを読む

No.358 - 高校数学で理解するガロア理論(5)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)(前回から続く) (目次)  7.可解性の十分条件    第6章では、方程式が可解であれば(=解が四則演算とべき根で表現できれば)ガロア群が可解群であることをみました。第7章ではその逆、つまり、ガロア群が可解群であれば方程式が可解であることを証明します。 7.1 1の原始\(n\)乗根 可解性の十分条件を証明するために、まず、\(1\) の原始\(n\)乗根がべき根で表せることを証明します。このことを前提にした証明を最後で行うからです。念のために「1.1 方程式とその可解性」でのべき根の定義を振り返ると、  \(\sqrt[n]{\:a\:}\) (\(n=2\) の場合は \(\sqrt{\:a\:}\)) という表記は、 ・ \(a\) が正の実数のとき、\…

続きを読む

No.357 - 高校数学で理解するガロア理論(4)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)(前回から続く) (目次)  6.可解性の必要条件    6.1 可解群 正規部分群の概念、および剰余群と巡回群を使って「可解群」を定義します。可解群は純粋に群の性質として定義できますが、方程式の可解性と結びつきます。 (可解群の定義:61A) 群 \(G\) から 単位元 \(e\) に至る部分群の列、 \(G=H_0\:\sp H_1\sp\cd\sp H_i\sp H_{i+1}\sp\cd\sp H_k=\{\:e\:\}\) があって、\(H_{i+1}\) は \(H_i\) の正規部分群であり、剰余群 \(H_i/H_{i+1}\) が巡回群であるとき、\(G\) を可解群(solvable group)と言う。 \(H_{i+1}\) が \(H_i\) の正規部分群であ…

続きを読む

No.356 - 高校数学で理解するガロア理論(3)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots} \newcommand{\fz}{0^{\tiny F}} \newcommand{\kz}{0^{\tiny K}} \newcommand{\fo}{1^{\tiny F}} \newcommand{\ko}{1^{\tiny K}}\)(前回から続く) (目次)  3.多項式と体(続き)    3.3 線形空間 ガロア理論の一つの柱は、代数拡大体を線形空間(ベクトル空間)としてとらえることで、線形空間の「次元」や「基底」を使って理論が組み立てられています。線形空間には精緻な理論体系がありますが、ここではガロア理論に必要な事項の説明をします。 線形空間の定義 (線形空間の定義:33A) 集合 \(V\) と 体 \(\bs{K}\) が次を満たすとき、\(V\) を \(\bs{\bs{K}}\) 上の線…

続きを読む

No.355 - 高校数学で理解するガロア理論(2)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)(前回から続く) (目次)  2.整数の群    「2.整数の群」「3.多項式と体」「4.一般の群」の3つの章は、第5章以下のガロア理論の核心に入るための準備です。 第2章の目的は2つあり、一つは整数を素材にして「群」と、それに関連した「剰余類」「剰余群」「既約剰余類」など、ガロア理論の理解に必要な概念を説明することです。 もう一つは、第2章の最後にある「既約剰余類群は巡回群の直積と同型である」という定理を証明することです。この定理はガロア理論の最終段階(6.可解性の必要条件)で必要なピースになります。 まず、"整数の群" に入る前に、整数論の基礎ともいえる「ユークリッドの互除法」「不定方程式」「法による演算」「中国剰余定理」から始めます。これらは後の定理の証明にしばしば使います。 2.1 整数 …

続きを読む

No.354 - 高校数学で理解するガロア理論(1)

\(\newcommand{\bs}[1]{\boldsymbol{#1}} \newcommand{\mr}[1]{\mathrm{#1}} \newcommand{\br}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\ol}[1]{\overline{#1}} \newcommand{\sb}{\subset} \newcommand{\sp}{\supset} \newcommand{\al}{\alpha} \newcommand{\sg}{\sigma}\newcommand{\cd}{\cdots}\)今までに「高校数学で理解する ・・・・・・」と題した記事を何回か書きました。 No.310 - 高校数学で理解するRSA暗号の数理(1) No.311 - 高校数学で理解するRSA暗号の数理(2) No.313 - 高校数学で理解する公開鍵暗号の数理 No.315 - 高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(1) No.316 - 高校数学で理解する楕円曲線暗号の数理(2) No.325 - 高校数学で理解する誕生日のパラドックス No.329 - 高校数学で理解するレジ行列の数理 の7つの記事です。「高校数学で理解する」という言葉の意味は、「高校までで習う数学の知識をベースに説明する」ということです。今回はそのシリーズの続編で、ガロア理論をテーマにします。その第1回目です。 ここで言う「ガロア理論」とは、 方程式の解が四則演算記号と \(…

続きを読む

No.353 - ウイルスがうつ病のリスクを高める

前回の No.352「トキソプラズマが行動をあやつる」で、トキソプラズマという微生物が人間の脳に影響を与え、人間の行動を変容させるのではという仮説を紹介しました。哺乳類に対しては、オオカミやハイエナの例、また、マウスでの実験で影響が明らかなので、人間に対してもそうだと考えるのが妥当なわけです。 これに関連してですが、微生物(=ウイルス)が人間の脳に影響を与え、その結果うつ病の発症リスクが高まるという研究がテレビ番組で放送されました。今回はその話です。 番組は、2022年10月4日放送の「ヒューマニエンス 49億年のたくらみ」(NHK BS プレミアム)で、その中での東京慈恵会医科大学のウイルス学者・近藤一博教授の研究です。大変興味深かったので、以下に番組のナレーションと近藤教授の話を再録します。 HHV-6 がうつ病のリスクを高める 【ナレーション】 過度の疲労が続くと起こりやすくなるうつ病。その発症に関係していると近藤さんが考えているのが、ヒトヘルペスウイルス6、通称 HHV-6。これまでは、赤ちゃんに突発性発疹を引き起こすことだけが知られてきた。HHV-6 は、私たちのほぼ 100% が体内に宿しているが、大人になってからは健康被害を引き起こすことはないと言われてきた。 しかし近藤さんは、HHV-6 はうつ病と深いつながりがあると考えている。 【近藤教授】 うつ病患者の血液を調べますと、HHV-6 が作り出す SITH-1(シス・ワン)というタン…

続きを読む

No.352 - トキソプラズマが行動をあやつる

No.350「寄生生物が行動をあやつる」で、トキソプラズマの話を書きました。今回はその補足です。トキソプラズマは単細胞の原生生物ですが、N0.350 の要点は次の通りでした。 ◆ トキソプラズマは猫科の動物が最終宿主であり、そこでしか有性生殖できない。◆ トキソプラズマは人間を含む幅広い哺乳類や鳥類に感染し(= 哺乳類や鳥類は中間宿主)、無性生殖(=分裂)を行う。◆ トキソプラズマは感染した動物の行動を変える。狼は攻撃的になり、群のリーダになりやすい(仮説)。ネズミは猫を恐れなくなる。 この、トキソプラズマが感染した動物の行動をあやつることに関して、NHK BSプレミアムの番組の中で詳しく紹介されていました。 超進化論 第3集すべては微生物から始まった~ 見えないスーパーパワー ~( NHK BSP 2023年1月8日) です。今回はその番組からトキソプラズマの部分を紹介します。 超進化論・すべては微生物から始まった 【ナレーション(廣瀬智美アナウンサー)】 微生物は、ひょっとしたら意志をもっているのではないか。そう、思わせるような研究報告が相次いでいます。何と、感染した生き物の脳を操って自分の味方にしてしまうというのです。 ことの主役はトキソプラズマ。哺乳類や鳥類に感染する微生物です。人間に感染しても、胎児を除けば、ほとんど影響がないと考えられてきました。 チェコ・カレル大学のフレグルさん。トキソプラズマの驚く…

続きを読む

No.351 - 運動しても痩せないのはなぜか

No.221「なぜ痩せられないのか」で、「日経サイエンス」に掲載されたデューク大学のハーマン・ポンツァー准教授の論文を紹介しました。進化人類学者のポンツァーは、身体活動量が全く違うアフリカの狩猟採集民・ハッザ族とアメリカの都市生活者のエネルギー消費を比較し、それがほぼ同じであることを立証していました。運動によるエネルギー消費で減量を目指しても、その効果は無いか、限定的です。 もちろん、運動は健康維持に役立ちます。というより、健康維持のためには運動が必須です。そのことは、 ・ No.272「ヒトは運動をするように進化した」 ・ No.286「運動が記憶力を改善する」 ・ No.320「健康維持には運動が必須」 で紹介しました。以上の話の発端となったポンツァー准教授が著した単行本が出版されました。 運動しても痩せないのはなぜか 代謝の最新科学が示す「それでも運動すべき理由」 ハーマン・ポンツァー(Herman Pontzer)著 (小巻靖子・訳 草思社 2022) です。No.221 と重複する内容もありますが、単行本なのでさすがに詳しく記述してあります。今回はこの本(以下、本書)の内容をかいつまんで紹介します。なお、原題は、 BURN New Research Blows the Lid Off How We Really Burn Calories, Lose Weight, and Stay Healthy …

続きを読む

No.350 - 寄生生物が行動をあやつる

No.348、No.349 に続いて寄生の話です。No.348「蚊の嗅覚は超高性能」では、 ある種のウイルスは、宿主(= ウイルスが感染している生物)を、蚊の嗅覚に感知されやすいように変化させ、蚊の媒介によるウイルスの拡散が起こりやすくしている との主旨を書きました。ウイルスの生き残り(ないしはコピーの拡散)戦略は誠に巧妙です。また、No.349「蜂殺し遺伝子」は、 ウイルスが芋虫に感染すると、その芋虫は寄生バチの卵や幼虫を死滅させるタンパク質を生成し、これによってハチに寄生される確率が下がる。このタンパク質を生成する「蜂殺し遺伝子」はウイルスがもたらす との主旨でした。ウイルスにとって寄生パチは宿主(=芋虫)をめぐる競争相手です。従って競争相手を排除する仕組みを発達させたのです。 こういったウイルス、もっと広くとらえると「寄生体」は、この2例のように宿主の "体質" を変えることがあり、さらにそれだけでなく、宿主の行動をコントロールするケースがあることが知られています。そのような「宿主の行動を操あやつる寄生体」として、カマキリにの寄生するハリガネムシの例を紹介します。ハリガネムシ(針金虫)とは、その名のとおり針金のような形の虫で、カマキリをはじめとする各種の昆虫に寄生します。 最強ハンター カマキリ 2022年11月7日のNHK BSプレミアムの番組、ワイルドライフ「鳥を襲う最強ハンター カマキリ 究極の技」で、驚きの映像が2つ紹介されました。一つは、カ…

続きを読む

No.349 - 蜂殺し遺伝子

前回の No.348「蚊の嗅覚は超高性能」で、 ある種のウイルスは、宿主(= ウイルスが感染している生物)を "蚊の嗅覚に感知されやすいように" 変化させ、蚊の媒介によるウイルスの拡散が起こりやすくしている との主旨を書きました。ウイルスの生き残り(ないしはコピーの拡散)戦略は誠に巧妙です。 これは、2022年9月17日の日本経済新聞の記事から紹介したものですが、その1年ほど前の日経新聞にも「ウイルスの巧妙な戦略」の記事があったことを思い出しました。今回はその内容を紹介します。 ウイルスの脅威、競合相手にも 「感染者」横取り阻む 日本経済新聞(2021年8日22日) と題した記事です。以下の引用は、日経デジタル(2021年8月21日 2:00)からです。 補食寄生 まず、この記事の前提は「補食寄生」です。ほとんどの寄生者は宿主(= 寄生する相手)と共存しますが、補食寄生とは最終的に宿主を殺してしまう寄生です。 エメラルドゴキブリバチの成虫(Wikipedia) 蜂の仲間には補食寄生を行う種が多々ありますが、最も "高度な" 寄生者として「エメラルドゴキブリバチ」が知られています。多くの補食寄生者は特定の1種の昆虫を宿主とします。エメラルドゴキブリバチの宿主は、ゴキブリの1種のワモンゴキブリ(輪紋ゴキブリ)です。日経サイエンス 2021年7月号の記事「エメラルドゴキブリバチは3度毒針を刺す」(K.C.カタニア:バンダービルト大学・米 テネシー州)…

続きを読む

No.348 - 蚊の嗅覚は超高性能

今まで何回か生物の "共生" について書きました。たとえば、 No.105「鳥と人間の共生」 では、アフリカのサバンナにすむノドグロミツオシエという鳥が動物を蜂の巣へ誘導する行動が、かつてアフリカにいた絶滅人類との共生関係で成立したのではないかとする、ハーバード大学のランガム教授の仮説を紹介しました。また、 No.307「人体の9割は細菌(1)21世紀病」 No.308「人体の9割は細菌(2)生態系の保全」 では、人体に住む常在菌(特に腸内細菌)が、人体に数々のメリットを与えていることをみました。 生物界における共生、ないしは依存関係で最も知られているのは、植物と昆虫の関係でしょう。植物は昆虫によって受粉・交配し、昆虫は蜜などを得る(=栄養として子孫を残すことに役立つ)という関係です。植物は昆虫にきてもらう為にいろんな手を尽くします。 オーストラリアに自生するある種のランは、特定の蜂のメスに擬態し、その蜂のオスが間違えて交尾にやってくると、可動する雄蕊おしべで花粉を蜂の背中につけるものがあります。こうなると、ランが蜂を「利用している」という印象になりますが、進化のプロセスが作り出したしくみは誠に奥深いというか、非常に巧妙だと思わざるを得ません。 ところで最近、植物と昆虫の関係に似た話が日本経済新聞に載っていました。それは「ウイルス」と、ウイルスを動物間で媒介する「蚊」の関係です。ちょっと信じがたいような内容だったので、それを紹介したいと思います。中国の清華大学のチームの…

続きを読む

No.347 - 少なくともひとりは火曜日生まれの女の子

No.149「我々は直感に裏切られる」と No.325「高校数学で理解する誕生日のパラドックス」でとりあげた「誕生日のパラドックス」から話を始めます。 有名な「誕生日のパラドックス」は「バースデー・パラドックス」とも言われ、 23人のクラスで同じ誕生日のペアがいる確率は 0.5 を超える というものです。これは正確に言うとパラドックスではなく "疑似パラドックス" です。パラドックスとは「一見すると妥当そうに思える推論から、受け入れがたい結論が導かれること」ですが、疑似パラドックスは「数学的には全く正しいが、人間の直感に反するように感じられる結論」です。 この "疑似パラドックス" が成り立つ理由を一般化して言うと、「確率が直感に反することが多々ある」でしょう。さらにもっと一般化すると「確率は難しい」ということだと思います。裏から言うと「誤った確率の使い方は人を誤解に導く」ともなるでしょう。誤っていることが往々にして分からないからです。 イアン・ステュアート 「不確実性を飼いならす」 (白揚社 2021) 我々は「コインを投げたとき、表が出る確率は 1/2」とか「サイコロを振ったとき 1の目が出る確率は 1/6」のように、"確率を理解している" と思っているかもしれません。「2つのサイコロを振ったとき、2つとも 1 の目が出る確率は 1/36」もよいでしょう。しかし、我々が常識の範囲で理解できるのは、せいぜいこのあたりまでで、ちょっと込み入ってくると手に負えなく…

続きを読む

No.346 - アストリッドが推理した呪われた家の秘密

このブログでは数々の絵画について書きましたが、その最初は、No.19「ベラスケスの "怖い絵"」で取り上げた「インノケンティウス10世の肖像」で、中野京子さんの『怖い絵』(2007)にある解説を引用しました。この絵はローマで実際に見たことがあり、また中野さんの解説が秀逸で、印象的だったのです。 『怖い絵』には興味深々の解説が多く、読み返すこともあるのですが、最近、あるテレビドラマを見ていて『怖い絵』にあった別の絵を思い出しました。15~16世紀のドイツの画家・グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイムの祭壇画』です。今回はそのことを書きます。 テレビドラマとは、NHK総合で放映中の「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」です。 アストリッドとラファエル 「アストリッドとラファエル 文書係の事件簿」は、NHK総合 日曜日 23:00~ の枠で放映されているフランスの警察ドラマです。 アストリッドはパリの犯罪資料局に勤務する文書係の女性(俳優はサラ・モーテンセン)、ラファエルはパリ警視庁の刑事(警視)です(俳優はローラ・ドヴェール)。アストリッドは自閉スペクトラム症ですが、過去の犯罪資料に精通していて、また抜群の洞察力があります。一方のラファエルは、思い立ったらすぐに(捜査規律違反もいとわず)行動に移すタイプです。しかし正義感は人一倍強く、人間としての包容力もある女性刑事です。この全く対照的な2人がペアになって難事件を解決していくドラマです(サラ・…

続きを読む

No.345 - "恐怖" による生態系の復活

No.126-127「捕食者なき世界」の続きです。No.126-127は、生態系における捕食者の重要性を、ウィリアム・ソウルゼンバーグ著「捕食者なき世界」(文春文庫 2014)に沿って紹介したものでした。 生態系において捕食者(例えば肉食獣)が、乱獲などの何らかの原因で不在になると、被捕食者(例えば草食動物)が増え過ぎ、そのことによって植物相が減少する。最悪の場合は草食動物もかえって数が減って生態系の荒廃が起こり得る。このようなことが、豊富な実例とともに示されていました。 生態系における「捕食・被捕食」の関係は、動植物の種が複雑に絡み合うネットワークを形成していて、そのネットワークには「不在になると他の種に連鎖的な影響を及ぼす種」(= キーストーン種。キーストーンは "要石かなめいし" の意味)があります。食物連鎖の頂点に位置する肉食獣は代表的なキーストーン種なのでした。 ところで、最近の NHK BS1 のドキュメンタリーで、人的要因によって激変してしまった生態系を、捕食者の再導入によって元に戻そうとするプロジェクトが放映されました。その番組は、 NHK BS1 BS世界のドキュメンタリー (2022年8月9日 15:00~15:45) 「"恐怖" でよみがえる野生の王国」 (Nature's Fear Factor)  制作:Tangled Bank Studios(米国 2020) です。今回はこの番組の概要を紹介します。日本語題名に「"恐…

続きを読む

No.344 - 算数文章題が解けない子どもたち

No.234「教科書が読めない子どもたち」は、国立情報学研究所の新井紀子教授が中心になって実施した「全国読解力調査」(対象は中学・高校生)を紹介したものでした。 この調査の経緯ですが、新井教授は日本数学会の教育委員長として、大学1年生を対象に「大学生数学基本調査」を実施しました。というのも、大学に勤める数学系の教員の多くが、入学してくる学生の学力低下を肌で感じていたからです。この数学基本調査で浮かび上がったのは、そもそも「誤答する学生の多くは問題文の意味を理解できていないのでは」という疑問だったのです。 そこで本格的に子どもたちの読解力を調べたのが「全国読解力調査」でした。その結果は No.234 に概要を紹介した通りです。 ところで最近、小学生の学力の実態を詳細に調べた本が出版されました。慶応義塾大学 環境情報学部教授の今井むつみ氏(他6名)の「算数文章題が解けない子どもたち ── ことば・思考の力と学力不振」(岩波書店 2022年6月)です(以下「本書」と記述)。新井教授の本とよく似た(文法構造が全く同じの)題名ですが、触発されたのかもしれません。 今井むつみ・他6名 著 「算数文章題が解けない子どもたち」 (岩波書店 2022年6月) 新井教授は数学者ですが、本書の今井教授は心理学者であり、認知科学(特に言語の発達)や教育心理学が専門です。いわば、読解力を含む「学力」とは何かを研究するプロフェッショナルです。そのテーマは「算数文章題」で、対象は小学3年生…

続きを読む

No.343 - マルタとマリア

No.341「ベラスケス:卵を料理する老婆」は、スコットランド国立美術館が所蔵するベラスケスの「卵を料理する老婆」(2022年に初来日。東京都美術館)の感想を書いたものでした。ベラスケスが10代で描いた作品ですが(19歳頃)、リアリズムの描法も全体構図も完璧で、かつ、後のベラスケス作品に見られる「人間の尊厳を描く」という、画家の最良の特質が早くも現れている作品でした。 この「卵を料理する老婆」で思い出した作品があるので、今回はそのことを書きます。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵もベラスケスが10代の作品で、また、2020年に日本で開催された「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」で展示されました。 新約聖書のマルタとマリア まず絵の題についてです。「マルタとマリアの家のキリスト」は新約聖書に出てくる話で、聖書から引用すると次のようです。原文にあるルビは最小限に省略にしました。 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言みことばに聞き入っていた。ところがマルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは…

続きを読む

No.342 - ヒトは自己家畜化で進化した

No.299「優しさが生き残りの条件だった」は、雑誌・日経サイエンス2020年11月号に掲載された、米・デューク大学のブライアン・ヘア(Brian Hare)とヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)による「優しくなければ生き残れない」と題した論文の紹介でした。これは、人類(=ホモ族)の中でホモ・サピエンス(=現生人類)だけが生き残って地球上で繁栄した理由を説明する "自己家畜化仮説" を紹介したものです。 "自己家畜化仮説" の有力な証拠となったのは、旧ソ連の遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985)が始め、現在も続いている「キツネの家畜化実験」です。この実験のことは No.211「狐は犬になれる」に書きました。この実験がなければ "自己家畜化仮説" は生まれなかったと思われます。"自己家畜化" というと、なんだか "おどろおどろしい" 語感がありますが、進化人類学で定義された言葉です。 ところで、ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズ(以下「著者」と記述)の論文の原題は「Survival of the Friendliest」(Scientific American誌)です。直訳すると「最も友好的なものが生き残る」という意味です。これはもちろん、進化論で言われる "Survival of the Fittest"(適者生存)の "もじり" です。適者生存とは、自然環境・生存環境に最も適した生物が生き残ることで生物が変化(=進化)し、多様化してきたという、進化論の原…

続きを読む

No.341 - ベラスケス:卵を料理する老婆

今まで何回か書いたベラスケスについての記事の続きです。2022年4月22日 ~ 7月3日まで、東京都美術館で「スコットランド国立美術館展」が開催され、ベラスケスの「卵を料理する老婆」が展示されました。初来日です。今回はこの絵について書きます。 なお、ベラスケスに関する過去の記事は以下のとおりです。 No.  19 - ベラスケスの「怖い絵」 No.  36 - ベラスケスへのオマージュ No.  45 - ベラスケスの十字の謎 No.  63 - ベラスケスの衝撃:王女と「こびと」 No.133 - ベラスケスの鹿と庭園 No.230 - 消えたベラスケス(1) No.231 - 消えたベラスケス(2) No.264 - ベラスケス:アラクネの寓話 卵を料理する老婆 ディエゴ・ベラスケス 「卵を料理する老婆」(1618) (100.5cm × 119.5cm) スコットランド国立美術館 この絵は、No.230「消えたベラスケス(1)」で紹介しました。No.230 は、英国の美術評論家、ローラ・カミングの著書「消えたベラスケス」の内容を紹介したものです。この中で著者は、8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド国立美術館で見たのがこの絵だった、と書いていました。彼女の父親は画家です。画家はこの絵を8歳になった娘に見せた。8歳であればこの絵の素晴らしさが理解…

続きを読む

No.340 - 中島みゆきの詩(20)キツネ狩りの歌

今回は「中島みゆきの詩」シリーズの続きですが、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」の中で一部を引用した《キツネ狩りの歌》を取り上げます。この詩は、数ある中島作品の中でも最も "不思議な" というか、解釈にとまどう詩の一つだと思うからです。 なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。 キツネ狩りの歌 《キツネ狩りの歌》は、7作目のオリジナルアルバム「生きていてもいいですか」(1980)第3曲として収録されている楽曲で、その詩は次のようです。 《キツネ狩りの歌》 キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら ねぇ空は晴れた風はおあつらえ あとは君のその腕次第 もしも見事射とめたら 君は今夜の英雄 さあ走れ夢を走れ キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず 見事手柄たてたら乾杯もしたくなる ねぇ空は晴れた風はおあつらえ 仲間たちとグラスあけたら そいつの顔を見てみろ 妙に耳が長くないか 妙にひげは長くないか キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ グラスあげているのがキツネだったりするから 君と駆けた君の仲間は 君の弓で倒れてたりするから キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ キツネ狩りは素敵さ ただ生き…

続きを読む

No.339 - 千葉市美術館のジャポニズム展

No.224 に引き続いてジャポニズムの話題です。No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」は、2017年に国立西洋美術館で開催された展覧会(= "北斎とジャポニズム" 2017年10月21日~2018年1月28日)の話でしたが、先日、千葉市美術館で「ジャポニズム ── 世界を魅了した浮世絵」と題する企画展が開かれました(2022年1月12日~3月6日)。見学してきたので、それについて書きます。 ジャポニズム 世界を魅了した浮世絵 (ちらし) 以下、引用などで『図録』としてあるのは、この展覧会のカタログです。 ジャポニズム 世界を魅了した浮世絵 (図録) ジャポニズムを通して浮世絵を見る 『図録』の最初に、この展覧会の主旨を書いた文章が載っていました。それを引用します(段落を増やしたところがあります。また下線や太字は原文にはありません)。 浮世絵の魅力とはなんであろうか。この展覧会は、視覚的に浮世絵を見慣れてきた我々、特に日本人が無意識に感受しているその表現の特性を明らかにすることを主眼としている。 周知のように、19世紀後半に至り、日本の鎖国は解かれ、欧米へと大量の文物がもたらされるようになる。それは視覚的驚きを持って迎え入れられ、幻想と言っても良いレベルの日本への憧れをも伴いつつ、ジャポニズムという熱狂的な動向を導いた。 とりわけ浮世絵版画は、古典主義、ロマン主義の中で形骸化しつつあった西洋絵画の表現に、新たな可能性を示し…

続きを読む

No.338 - がん進化論にもとづく治療戦略

No.336 と No.337 の続きです。No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」と No.337「がんは裏切る細胞である」は、 がんは体内で起きる細胞の進化である という知見にもとづき、新たな治療方法の必要性を述べた2つの本を紹介したものでした。この2書に共通していたのは新たな方法である「適応療法」で、この療法を始めたアメリカの医師、ゲイトンビー(Robert Gatenby)の研究が紹介されていました。そのゲイトンビー本人による論文が2年前の日経サイエンスに掲載されました。 「がん進化論にもとづく治療戦略」   J.デグレゴリ(コロラド大学)   R.ゲートンビー(モフィットがんセンター) 日経サイエンス 2020年5月号 日経サイエンス 2020年5月号 です。今回はこの内容を紹介します。No.336、No.337 と重複する部分が多々あるのですが、「進化論にもとづくがん治療」をそもそも言い出した研究者の発言は大いに意味があると思います。 注意点は、この論文がもともと「Scientific American 2019年8月号」に掲載されたものだということです(原題は "Darwin's Cancer Fix")。がん治療の研究は日進月歩であり、約3年前の論文ということに留意する必要があります。 とはいえ、進化論にもとづくがん治療のキモのところが端的に解説されていて、「がんとは何か」の理解が進むと思いま…

続きを読む

No.337 - がんは裏切る細胞である

前回の No.336「ヒトはなぜ "がん" になるのか」は、英国のサイエンスライター、キャット・アーニー著の同名の本を紹介したものでした。内容は、がんを「体内で起きる細胞の進化」ととらえ、その視点で新たな治療戦略の必要性を説いたものでした。 今回は引き続き同じテーマの本を紹介します。アシーナ・アクティピス著「がんは裏切る細胞である ─ 進化生物学から治療戦略へ ─」(梶山あゆみ・訳。みすず書房 2021。以下 "本書")です(原題は "The Cheating Cell")。 アシーナ・アクティピス 「がんは裏切る細胞である」 梶山あゆみ・訳 (みすず書房 2021) 前回の本と本書は、2021年の出版です。つまり「進化生物学の視点でがんの生態を研究し治療戦略をつくる」という同じテーマの本が、同じ年に2冊刊行されたことになります。ただし、今回の著者は現役のがん研究者で、そこが違います。 著者のアシーナ・アクティピス(Athena Aktipis)は米国のアリゾナ州立大学助教で、同大学の "進化・医学センター" に所属しています。またカリフォルニア大学サンフランシスコ校の進化・がん研究センターの設立者の一人です。進化生物学の観点からがんを研究する中心の一人といってよいでしょう。従って、自身や仲間の研究も盛り込まれ、また、がんの生態に関する詳細な記述もあります。専門的な内容も含みますが、あくまで一般読者を対象にした本です。専門性と一般性がうまくミックスされた好著だと思いました…

続きを読む

No.336 - ヒトはなぜ「がん」になるのか

No.330「ウイルスでがんを治療する」に引き続いて、がんの話を書きます。今回は治療ではなく、そもそもがんがなぜできるのかという根本問題を詳説した本を紹介します。キャット・アーニー著 "ヒトはなぜ「がん」になるのか"(矢野真千子・訳。河出書房新社 2021。以下 "本書")です。 世の中にはがんに関する本が溢れていますが、なぜヒトはがんになるのか、がんはヒトにとってどういう意味を持つのかという根本のところを最新の医学の知識をベースにちゃんと書いた本は少ないと思います。本書はその数少ない例の一つであり、紹介する理由です。 キャット・アーニー "ヒトはなぜ「がん」になるのか" 矢野真千子・訳 (河出書房新社 2021) 著者のキャット・アーニー(Kat Arney)は英国のサイエンス・ライターで、ケンブリッジ大学で発生遺伝学の博士号を取得した人です。また、英国のがん研究基金「キャンサー・リサーチ・UK」の "科学コミュニケーション・チーム" で12年勤務した経験があります。最新の医学知識を分かりやすく一般向けに書くにはうってつけの人と言えるでしょう。 この本をとりあげる理由はもう一つあって、矢野真千子氏の日本語訳が素晴らしいことです。以前に、アランナ・コリン著「あなたの体は9割が細菌」を紹介したことがありましたが(No.307-308「人体の9割は細菌」)、この本も矢野氏の翻訳で、訳文が大変に優れていました。もちろん原書が論理的で明快な文章だからでしょうが、それにしても矢野氏…

続きを読む

No.335 - もう一つの「レニングラード」

No.281「ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 レニングラード」で、この交響曲が作曲された経緯とレニングラード初演に至るまでのプロセスを書きました。ショスタコーヴィチはレニングラード(現、サンクトペテルブルク)の人です。この曲は、独ソ戦(1941~)のさなか、レニングラードがドイツ軍に完全包囲される中で書き始められました。その後、政府の指示でショスタコーヴィチは安全な地に移され、そこで曲は完成し、レニングラードでの初演は1942年8月に行われました。 ところで最近、「レニングラード」と題した別の曲があることを思い出しました。ビリー・ジョエルの「レニングラード」です。なぜ思い出したのかというと、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略戦争です。この過程で種々の情報に接するうちに、思い出しました。そのことは最後に書きます。 ビリー・ジョエル「レニングラード」 ビリー・ジョエルは1987年にソ連(当時)で公演を行いました。その時に知り合ったロシア人のサーカスの道化、ヴィクトルとの交流を描いた楽曲が「レニングラード」です(1989年のアルバム「Storm Front」に収録)。ちなみにソ連の崩壊はその2年後の1991年でした。詩は次の通りです。試訳とともに掲げます。 なお人名の Victor は、英語圏ではヴィクターでビリー・ジョエルもそう歌っていますが、試訳ではロシア人名の一般的な日本語表記のヴィクトルとしました(ヴィクトールとすることもあります)。 Len…

続きを読む

No.334 - 中島みゆきの詩(19)店の名はライフ

No.328「中島みゆきの詩(18)LADY JANE」で書いたように、《LADY JANE》(アルバム「組曲」2015) という曲は下北沢に実在するジャズ・バーがモデルでした。これで思い出すのが、No.328 にも書いたのですが、《店の名はライフ》(1977)です。2つの楽曲には 38年の時間差があるのですが「実在の店がモデル」で「屋号がタイトル」いう点でよく似ています。今回はその《店の名はライフ》の詩について書きます。 なお、中島みゆきさんの詩についての記事の一覧が、No.35「中島みゆき:時代」の「補記2」にあります。 店の名はライフ 「店の名はライフ」は、3作目のオリジナル・アルバム「あ・り・が・と・う」(1977)に収められている作品で、次のような詩です。 《店の名はライフ》 店の名はライフ 自転車屋のとなり どんなに酔っても たどりつける 店の名はライフ 自転車屋のとなり どんなに酔っても たどりつける 最終電車を 逃したと言っては たむろする 一文無したち 店の名はライフ 自転車屋のとなり どんなに酔っても たどりつける 店の名はライフ おかみさんと娘 母娘で よく似て 見事な胸 店の名はライフ おかみさんと娘 母娘で よく似て 見事な胸 娘のおかげで 今日も新しいアルバイト 辛過ぎるカレー みようみまね 店の名はライフ おかみさんと娘 母娘で よく似て 見事な胸 店の名はライフ 三階は屋根裏 あやしげな運命…

続きを読む

No.333 - コンクリートが巨大帝国を生んだ

今まで古代ローマについて何回かの記事を書いたなかで、ローマの重要インフラとなった各種の建造物(公衆浴場、水道、闘技場、神殿 ・・・・・・)を造ったコンクリート技術について書いたことがありました。 No.112 - ローマ人のコンクリート(1)技術 No.113 - ローマ人のコンクリート(2)光と影 の2回です。実は、NHKの番組「世界遺産 時を刻む」で、古代ローマのコンクリート技術が特集されたことがありました(2012年)。この再放送が最近あり、録画することができました。番組タイトルは、 世界遺産 時を刻む 土木 ~ コンクリートが巨大帝国を生んだ ~ NHK BSP 2022年3月2日 18:00~19:00 です。番組では現代に残る古代ローマの遺跡をとりあげ、そこでのコンクリートの使い方を詳細に解説していました。やはり画像を見ると良く理解できます。 そこで番組を録画したのを機に、その主要画像とナレーションをここに掲載したいと思います。番組の全部ではありませんが、ローマン・コンクリートに関する部分が全部採録してあります。 古代ローマのコンクリート 【ナレーション】 (NHKアナウンサー:武内陶子) 永遠の都、ローマ。立ち並ぶ巨大な建築は、ローマ帝国の栄光と力を今に示しています。その街並みを作ったのが、高度な土木技術です。 古代の最も優れた土木技術と言われるローマの水道。地下水道をささえているのはコンクリートです。円形闘技場、コロ…

続きを読む

No.332 - クロテンの毛皮の女性

このブログで過去にとりあげた絵の振り返りから始めます。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介した『インノケンティウス十世の肖像』で、ベラスケスがイタリア滞在中に、当時75歳のローマ教皇を描いたものです。 ベラスケス(1599-1660) 「インノケンティウス十世の肖像」(1650) ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ) この絵について中野京子さんは「怖い絵」の中で次のように書いていました。 ベラスケスの肖像画家としての腕前は、まさに比類がなかった。──(中略)── 彼の鋭い人間観察力が、ヴァチカンの最高権力者に対しても遺憾いかんなく発揮されたのはとうぜんで、インノケンティウス十世は神に仕える身というより、どっぷり俗世にまみれた野心家であることが暴露されている。 眼には力がある。垂れた瞼まぶたを押し上げる右の三白眼。はっしと対象をとらえる左の黒眼。ふたつながら狡猾こうかつな光を放ち、「人間など、はなから信用などするものか」と語っている。常に計算し、値踏ねぶみし、疑い、裁く眼だ。そして決して赦ゆるすことのない眼。 どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によってくっきり輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。 中野京子『怖い絵』 (朝日出版社。2007) 肖像画を評価するポイントの一つは、描かれた人物の性格や内に秘めた感情など、人物の内面を表現して…

続きを読む

No.331 - カーネーション、リリー、リリー、ローズ

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館所蔵)のことを書きました。ベラスケスの『ラス・メニーナス』への "オマージュ" として描かれたこの作品は、2010年にプラド美術館に貸し出され、『ラス・メニーナス』と並べて展示されました。 ジョン・シンガー・サージェント (1856 - 1925) 「エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち」(1882) (222.5m × 222.5m) ボストン美術館 この絵の鑑賞のポイントの一つは、画面に2つ描かれた大きな有田焼の染め付けの花瓶です。これはボイト家に実際にあったもので、その後、ボストン美術館に寄贈されました。この有田焼は当時の欧米における日本趣味(広くは東洋趣味)を物語っています。 そして、同じサージェントの作品で直感的に思い出す "日本趣味" の絵が、画面に提灯と百合の花をちりばめた『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。テート・ブリテン所蔵)です。No.35 では補足として画像だけを載せましたが、今回はこの絵のことを詳しく紹介します。というのも、最近この絵の評論を2つ読んだからで、その評論を中心に紹介します。 カーネーション、リリー、リリー、ローズ ジョン・シンガー・サージェント (1856 - 1925) 「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」(1885-6) (174cm ×…

続きを読む